ふわ、とあくびが出た。
日差しが、暗がりから出てきたの視界を明けさせる。
「さて、どうしたもんかな……」
ぽつりと呟いた言葉に、反応はない。周りには誰もいない。辺りを見回す――ここには穏やかな自然と、まばらな宮殿の残骸がある、神に許された地なのだ。
エリシオン――その全容をは知らない。
地図はない。
なんとなく見覚えのある石柱の残骸が目印になっている。
草を踏みしめながらしばらく歩いて、は少し安心したように肩の力を抜く。そこから歩みが早まった。
「ヒュプノス」
やっと会えたような、そんな声が出てしまう。
彼――ヒュプノスが何をしていたのか、は知らない。
散策か、見回りか、はたまた彼女の気配を感じてのものだったか。色々と考えられた気はするが、ただ会えた。それだけで満足している。
なにせ三日、彼女は誰とも会えていなかった。タナトスの邸で過ごすが、主はいない。だからといって衣食に困ることはない。気付けばそれらは整えられているのだ。
名前を呼ばれて、ヒュプノスは静かに振り返る。「ああ」と小さく応えて、一歩を踏み出すなら、それ以上に歩み寄ってくるとの距離は容易く縮まった。
「まだいたのか」
「分かってるくせに」
「タナトスは――いや、暇をつぶしたいのなら付き合おう」
ヒュプノスの言葉には頷く。
その肯定を見とめて、彼はゆるりと歩き出す。
草を踏みしめる音が、二人分に増えた。
彼がどこへ向かって歩き出したのか、には分からなかった。聞こうとも思わない。ただその背中を追いかけても危険はない。そして、隣りに並ぶ。
「あのさぁ」
さくさくと草の根を踏む音が心地よくなってきたところで、はポツリと始めた。
歩みを止めることはない。まるで散歩中にある雑談のように、彼女の口調は軽い。
「帰還の約束事についてなんだけど、ほんっとーに一貫してないとダメなの?」
だが、割と悩んでいるようだった。
彼女が言いたいのは、契約条件の中にある召喚と帰還に関してについてだ。“喚び出した者が還す”ただそれだけの条項を指している。
「責任の所在が明らかになる」
「それはそう、なんだけど……」
「? 神は約定を覆さない。これは絶対だ」
ヒュプノスは疑問を払拭できていると思っているのかもしれないが、彼女は苦く笑った。
「いや、そうなんだけどね。う〜ん……」
言いよどむに、ヒュプノスは目を細める。
彼女はまっすぐ前を見たまま、ぽつりぽつりと続けた。
「“喚び出した者が還す”ってのは分かってるんだけど。でも……今回はもう、用事は終わってるの」
その声音は軽かったが、どこかしら戸惑いと苛立ちが混ざっている。
「終わってるのに、三日も放っとかれるとね。さすがに契約に反してると思うんだけどさぁ」
ヒュプノスは無言で歩きながら、その言葉の裏を探る。
「“還す意思があるかどうか”ではない。“還されていない”という事実があるなら、それは……契約違反に限りなく近い」
の溜息は納得の意味があったのかもしれない。
足取りは変わらない。それでも、声には少し疲れが滲んでいた。
「わたしだって空気は読むよ? タナトスが忙しいのか、機嫌が悪いのか、とかいろいろ考えて……」
言って、彼女は眉根をひそめる。
「二日目に入ったあたりで、“あー、これ放置されてるのかも”って思ったの」
ヒュプノスの足が止まる。
も自然に立ち止まった。
そして、ヒュプノスが初めて、彼女に正面から視線を向けた。
「……では訊こう。お前は今、“戻れなくなるかもしれない”と考えているのか?」
ヒュプノスの口調は責めるでも、嘲るでもなく、ただ淡々としていた。声音こそ穏やかさを思わせたが、の不安を煽る。
「……まぁ、少し」
それを物語るように、彼女の返答には僅かな間があった。
「契約は確かに交わされている。“喚び出した者が還す”――だがその履行には、召喚者の意志と裁量が深く関与する。これは、“形式としての契約”ではなく、“力の在処”を表している」
「力の……在処?」
「……つまり、支配権を持つ側が“還す”と決めなければ、どれほど文面が整っていようと無力、ということだ。そして。このエリシオンは我らの独立した管轄域だ」
ヒュプノスの声は静かで、まるで朗読のようだった。
「アテナが勝ったとて、“我らの領”において、全ての条文が機能するとは思うな」
「……裁量権の話だよね。ほんっとタチが悪い」
「“タチが悪い”と認識できているならば、回避は可能だ」
「いやいや、出来てないから」
ヒュプノスは、聞こえていないかのように、歩みを再開する。
も小さく息をついて、黙ってその後ろを追った。
「ねぇ、ヒュプノス」
「なんだ?」
「いつ還れると思う?」
「神のみぞ知る。というところだが、案外早いかもしれぬぞ?」
「……気休めなんだろうけど、ありがと」
わずかに心は軽くなる。――そう、思いたい。
不安ばかりでは、しんどくなるのだ。
あまり深く考えすぎないようにしなければ、心はもたない。
ヒュプノスは何も言わないまま、静かに先を歩いていた。
小さな花の咲く草原を越えて、半ば崩れかけた石の回廊を抜けると、ようやくあの建物が見えてくる。
荘厳でありながら、どこか夢の中のように淡い、ヒュプノスの私邸。
にとっては、もうすっかり見慣れた構図になりつつある。
邸の扉が近づいてきたころ、ヒュプノスがふと立ち止まる。
「ぅわぷっ! どうかした?」
彼の少し後ろをついて歩いていたは、突然立ち止まられてぶつかる。鼻が痛い。大きな体躯が前方の視界を遮断しているから、彼女は鼻を押さえながらひょいと後ろから覗く。
ヒュプノスは無表情で自邸の入口を見つめている。
その視線の先を追いかけるなら――件の神がいた。
そこにいたのは、こちらに背を向け、無言で扉を見上げるタナトスだった。
その背筋はまっすぐで、身じろぎ一つしない。
「あれ、タナトス?」
の、ぽつりとした声には少し喜色が込められているようにも思える。
彼女の声が届いたのかはわからなかったが、ようやくゆっくりとこちらを振り向いたタナトスは、いつも通りの仏頂面だった。
その表情には、案の定、を気遣う様子も、心配していた風情も、一切ない。
すたすたと二人の前まで来たかと思うと、ただ一言、当然のように言うのだ。
「用は済んだ。帰るぞ」
「……はい?」
あまりに唐突で、は思わずそう返す。
「三日待てと言っただろう?」
「いつ? んん??」
話が全くかみ合わない。
は疑問符をいっぱい浮かべて、それこそ三日前を思い出すが、聞いた記憶はない。そもそも目が覚めた時には、もう彼は邸内のどこにもいなかった。
「ヒュプノス。お前……」
「あ……あー!! ひどい! ヒュプノス!」
そしては気付いた。
三日も留守にせざるを得なかったタナトスが、何とも言えない表情でヒュプノスの顔を見ている――
ヒュプノスは敢えて、何も言わなかったのだ、と。
「まったく……。俺を巻き込むことだけはやめろ」
に関しては好きにしていい、というニュアンスが含まれていたが、彼女には届いていない。
だからはタナトスをよそに、ヒュプノスの袖をグイグイ引っ張って抗議を続ける。
彼は視線を逸らし、冷たく無表情を装いながらも、の手を振り払わずにいる。
指先が軽く触れ合うその感触は、拒絶でもなければ積極的な甘えでもない――どこか微妙な距離感を保つ、彼なりの“甘さ”だった。
彼はタナトスとしか視線を合わせず、袖口の温もりもそのままにしている。
その無表情は、いつも通りの“分かっていて言わない”という態度だった。
二人のやり取りに呆れた溜息をついたのは、銀の神だった。
「冥界で問題が生じた故、俺が対処せねばならんかった。その間のことはヒュプノスに伝えておいたが――」
「おかしいな? わたしの愚痴を聞いてたのに煽ることしか言わなかったぞ?」
「そういう男だ、ヒュプノスは。お前が不安になるのを楽しんでいたに決まっている」
いやいやいや。とさらに文句の追撃をかけようと思ったが、タナトスの言葉に一理あると理解している自分がいる。
実に腹立たしい。
寄り添うようで寄り添わない。それがヒュプノスのやり方だ――とは改めて実感する。
「タナトスだって書き置き残しとくとか」
「ヒュプノスと念話で済む。無駄だ」
「二人で完結する前に当事者のわたしを含めろって言ってんのよ……」
「なぜだ?」
二人分の声が重なって、これは無駄。とは頭痛を覚えた。
あくまで彼らの愛でるだの、戯れだのは所有欲の一つで、そしてそれはいつも一方通行だ。
神と人間の感覚はずれている。
約定は守る、しかしその過程に人間の心を挟む余地などない。
それでも、その最低限の約束がある限り、付き合う価値はあった。
そう思うからこそ、彼女はまだこの契約を続けているのだ。
――感情は別として。
「もういい」
「。慣れなくていいものに慣れるな」
の言葉に、ヒュプノスはわずかに視線を細めるが、それはまちがいなく悪手だった。
じろりと冷たい視線を向け、人差し指を突きつけながら、彼女は言った。
「ヒュプノス。それ今わたしに言っちゃいけないやつだからね?」
不貞腐れても意味はない。
届かないものは届かない。
届くとしても、それは気の遠くなる年月を要するに違いない。
「どうするのだ。還るのならばすぐ送ってやる」
「……還る」
疲労を滲ませるタナトスの声音は、いつもと変わらぬ低さと重さを湛えていた。あくまで契約の履行。それ以上でも、それ以下でもない――。
だが、彼女の短い返事のあと、タナトスはと視線を合わせる。一瞬じっと見つめたのち、今度はヒュプノスのほうへと視線を移した。
「おい、ヒュプノス。聖域には――」
「そちらは問題ない。伝えてある」
ヒュプノスの声音は淡々としており、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
それがまた、の苛立ちを増幅させたようだが、無意味なことだと悟ったのか、彼女はふと脱力した。
――どうあっても伝わらないのだから、仕方がない。
――わたしはまんまと誘導されていたのだ。
「……しばらく会わないからね」
とても小さな声だったが、確かな決意が込められていた。
伝わらずとも、言葉にするに限る。自分のために。
腕を組んでそっぽを向く。
なんとも分かりやすく不満を表しただが、ヒュプノスの表情は崩れない。
だが、兄神の「そらみたことか」と、収拾は自己責任だと言わんばかりの冷たい視線に、ヒュプノスは小さく肩をすくめる。その仕草は、確かに遊びが過ぎた自覚をにじませているようで、はさらに腹立たしさを覚えた。
「……少し、驚かせすぎたかもしれぬ」
淡々とした声音に取ってつけたような言葉。その無表情の奥に、ほんのわずかな揺らぎが見えた……気がした。錯覚だとしても、にはそう見えてしまった。
分かっている。これもヒュプノスの手口だ。
分かっているのに、胸の奥が少しだけ和らいでしまう自分が悔しい。
「ほんとに、ずるいんだから……」
吐き捨てたそれは抗議のはずなのに、なりえない。そんな自分を認めたくなくて、は余計に顔をそむける。
形だけの詫びを受け入れ、許すのは自分だと知っている。
それもまた、人間であるの傲りだった。
神々の傲りに、人間の傲りをぶつける。
ヒュプノスは、気侭に翻弄する傲りを。
タナトスは、絶対的に支配する傲りを。
そしては、神に対して許す傲りを。
それら三つの傲りは、静かに重なり続けていくのだ。