まどろみの棘


タナトス @ 聖闘士星矢
Published 2025/07/31
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 は聖域の使者として、時折ハーデス城へ赴くことがある。地上とは違う薄暗さや、雰囲気の重さがあったが、もう慣れてしまった。
 というのも、彼女がいるのは城の談話室だ。客をもてなすための部屋でもあり、全体の雰囲気に比べればやや柔らかい。
 そこで待機している間に出される紅茶とお菓子に、すっかり魅了されてしまったのかもしれない。

 彼女は聖域では内務補佐の立場にある。これはサガの謀反時代の名残だ。経験年数はそれなりに長くなってしまったため、黄金聖闘士が揃っているにも関わらず、教皇宮での仕事に従事している。
 揃いも揃って脳筋が集うのだから、自然な流れではあった。

 この一時は、ある意味での休息でもあった。
 聖域にいれば忙殺は必須。加えて、仕事人間の心配で気の休まる時がない。
 目を離すとすぐに抱え込む者が約一名いて、はとても過保護に彼を心配している。彼の方が年上であれ、あらかた年齢を食ってしまえば関係のないことだった。
 いや、誰かを心配できるくらいには大人になっていたのだ。

「ピリついてるなぁ」

 他人事といえばそれまでだ。
 冥界の執務室の方からは、自分の知る緊張感が漂ってきている。
 そういえば、紅茶を出してくれたパンドラはうんざりとした顔をしていたな、とは思い出した。
 しかしそうは言っても、部外者の自分に助けられることは何もない。いや、そもそも機密事項も諸々あるのだ。彼らに頑張ってもらうしかない。

 と、は大好きなジャムの塗られたクッキーに手を伸ばす。
 その時だった。
 大きな音を立てて、この部屋のやたら大きな扉が開いたのは。

「げっ、タナトス」
「やはりお前か」
「いま、聖域の使者。書類待ち」

 必要最低限の言葉で伝えて、はクッキーを口に放り込む。やわらかな甘さに堪らなくなったが、じとりと銀の瞳で睨まれてしまった。しかし、口の中をスッキリさせるために、彼女は屈することなく紅茶を二口ほど口に運んだ。
 それを見て、タナトスは分かりやすく眉間にシワを寄せる。

「えぇ……、わたし別にタナトスに怒られるようなことしてないじゃん……」

 とかく、この死神の圧は強い。
 扉を開けっ放して、石造りの床を靴が叩く。見る間にの側へ距離を詰めたかと思うと、彼女の座る椅子の背もたれに手をかけた。

 負けを認めたように、は不承不承、手に持っていたものをテーブルに戻す。と、体を彼の神の方へと向けて見上げた。

「なに?」
「どうせ暇を持て余しているのだろう。執務室へ来い」
「イヤだよ。今日は使者なの」
「そんなことのためにではない」
「そんなことのためにホイホイ喚びつけるくせに……」
「お前が望むとおりにしてやろうか」
「なんて横暴なんだ……」

 は天井を仰ぎ見た。視界の端に、こちらを見下ろす彼の顔がしっかり映り込んでいる。

「分かったって。行くよ。だからその不機嫌な小宇宙、ぶつけないで」

 さっきまで他人事だったこの緊張感は、間違いなく彼が発生源だ。
 ヒュプノスとは違い、タナトスは露骨に苛立ちを撒き散らす。冥闘士たちの胃も、さぞ削られていることだろう。

「……ここでも人身御供かぁ」

 自嘲めいた笑みを口に浮かべ、は立ち上がる。
 つかの間の休憩が潰れたことに多少の不満を抱きつつ。

「そういえば、タナトスの執務室って初めてかも」

 その一言に、タナトスは明らかに気分を良くした。
 無言で背を向け、歩き出す。歩幅を考えずに進むその背に、は小走りでついていった。


---

 通された部屋は、随分と奥まった場所にあった。
 パンドラが主に双子神と掛け合うのだろうが、それにしても彼女の執務室から離れている。神と人との隔たりの一つなのかもしれない。

 部屋の装飾は落ち着いていた。
 エリシオンの彼らの邸はそれなりに豪奢ではあったが、ここは本当に仕事をするだけの場所なのだろう。
 一般的な執務室といったところで、小休憩用のカウチもあり、チェス盤まで置かれていた。

「あそこへ座れ」

 背後で扉が静かに閉まると、タナトスが顎でカウチを示す。標準的な人間なら三人は並んで座れそうな広さだ。
は促されるまま、ちょこんと手前に腰掛ける。思っていたよりずっと座り心地がよかった。

「もっと奥だ」

 座り心地を堪能していた矢先、タナトスの手がしっしっと彼女を奥にある肘掛けの方へ追いやる。
 まるで当然の権利であるかのように。
 が端まで押しやられるのを確認すると、彼はそこへ、重みをかけるようにゆったりと体を横たえた。

「おお……まさかの、膝枕を所望してる?」
「そうだ。輪廻に加わる聖闘士どもの調整で疲れた」

 やや乱暴に膝の上に頭が乗った。
 カチリと、銀の双眸と目が合う。
 の両手は宙を彷徨ったままだった。彼はヒュプノスと違い、あまり人の手を許さない。うかつに触れて機嫌を損ねるわけにはいかない。
 にもかかわらず、彼は静かに目を閉じて言った。

「好きに触れ」

 その一言がかえって厄介だった。許されたからといって、気安く触れていい相手ではない。
 あーでもない、こーでもないと色々考えた結果、意を決する。
 はちらりとタナトスの顔色をうかがいながら、そろそろと片手を伸ばす。

 まずは肩に。ごく軽く、緊張気味に乗せてみる。
 ……何も言われない。拒まれもしない。

 もう一方の手を、意を決して髪に伸ばす。
 恐る恐る、頭の横あたりを撫でるように指を通すと、さらりとした銀の髪が指先に絡まった。

 彼の呼吸が変わるでもなく、眉が動くでもない。眠っているようにすら見える。
 不意に、タナトスの口元が歪んだ。

「抱かれているときは、もっと遠慮がなかったがな」
「――んなっ!」

 跳ねるように手が止まり、は言葉を失う。
 わざとなのだ、間違いなく。タナトスは目を開けてさえいないのに、口元だけが薄く愉しげに吊り上がっている。

「むぅ……だったら、今しがみついていいの?」

 がぼそりと呟くと、タナトスの睫毛が一度だけ震える――その発言の意図を即座に読み取ったように。

「……甘えるのならば、ヒュプノスにしろ。あれの方が得意だ」
「……何それ。兄弟間で押し付けあってるわけ? あ! 今の仕事もそうでしょ?」

 納得した、とは呆れつつも、タナトスの髪に触れた手を戻さない。
 タナトスは応じないが、拒みもしない。
 だからきっと、これが彼なりの“許容”なのだろう。

「もういい。静かにしていろ」

 タナトスは面倒くさそうに言い切ると、もう口を噤んだままだった。
 彼の呼吸はゆっくりと静かに、浅くなる。
 神の眠りは深くはない。
 けれど彼は確かに、微睡んでいた。
 の膝の上――死神らしからぬ穏やかさのもとで。



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