上澄みの味わい


タナトス @ 聖闘士星矢
Published 2022/08/17
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。お前はタナトスのことを愛称で呼ぶのか?」

 それはにとってはまったく覚えのない話で、はて、と小首をかしげるのが死神の弟に対する返事であった。例の死神に二つ名のようなものがあるとは知らないし、かと言ってこの歪な関係性に愛称で呼び合うような親密さは生じ得ない。
 自分はただの彼の暇つぶしのおもちゃでしかない。

「全く覚えがないけど、タナトスが言ってんの? こわいわー。記憶の捏造でもしてんのかしら」

 自分の預かり知らぬところで話が大きく盛られることほど怖いことはない。やだやだ、と身震いするかのごとく自身を抱きしめるはヒュプノスに「ない」と断言する。

「しかしそんな嘘を私に吐く利などないだろう」
「寝ぼけてんじゃない?」
「ふむ……」

 エリシオンに喚ばれることも、喚んだ当人に放置されることも、またその片割れにもてなしてもらうことも、にはありがちなことになりつつある。
 す、と音もなく現れる死神は何をしていたのか。

「呼ぶではないか」

 突如として隣に現れるものだから、は思わず手にしていた茶器を取り落としそうになってしまう。そんな動揺には目もくれず、タナトスは優雅に足を組み、続けた。

「なんだ。自覚はないのか? 寝所でそう俺を呼んでいるだろう?」
「し、ぶぁっ……!」
「俺にしがみつきなが――」
「わあああああ!!」

 光速には及ばないにしろ、も白銀聖闘士の端くれなわけで、茶器をやや乱暴に置くと、マッハの速さでタナトスの口をふさぎにかかる。隣というのが功を奏した、ということはなく、彼女の速さよりも格段にタナトスの方が上回っていた。
 難なくの細い手首は掴まれて、タナトスはといえば得意げに弟神に言って聞かせるのだ。いかに自分が彼女を悦ばせているのかを。

「ち、ちがっ!」
「何がちがうのだ? 甘ったるい声で啼いているではないか」
「あんたはデリカシーを拾ってきて!!」

 涙目になりながらは止めてくれと訴えるものの、それがタナトスに伝わることはない。
 あることあること、包み隠さないあたりはやはり神なのだろう。人間にあるであろう“思いやり”も“察する”も見事にない。

「タナトス。普通は閨での話を外部には漏らさないものだ」
「そうなのか?」

 散々、その話に付き合ったヒュプノスもヒュプノスだ。助け舟のようでいてその実、すべてを聞き及んだ後ならそれはただの体裁の取り繕いでしかない。タナトスのようにあからさまに反応を見て楽しむ素振りを見せない分、質が悪い。
 また肝心のタナトスも依然として拘束を解く気はないようで、慌てたとしても軽率だったとは後悔する。

「ヒュプノス! このお兄ちゃんとめて……」
「お前が知りうる中で、兄を御した弟はいたか?」
「さもありなんみたいな言い方しないでっ。絶望する」
「触らぬ神に祟りなしという言葉もあるらしいな」
「…………」

 この兄にしてこの弟ありだ。はめまいすら覚える。
 完全におちょくられているのは分かっているが、2対1ともとより分が悪い。口をへの字に曲げて、出来うる意思表示をするくらいしか彼女には手立てがない。

「何だそのブサイクな顔は」
「うるひゃい」

 ぐわし、と大きな手での顎を掴むタナトスは人相悪く笑って貶す。

 嫌な予感がする。

 そう感じたときにはもう遅い。
 勝手な戯れに巻き込まれて、は体を震わせた。必死に体をのけぞらせるが、それすらも彼の手の内でしかない。このやり取りすら、タナトスの戯れに過ぎなかった。

「ひ、ヒュプノス、たすけ、っ!」

 ほらどうした、と?愉しげに体重を加えてくる始末だ。押し退けようにも、そうする絶対的な意思があるのだろう、びくともしない。

 小宇宙を燃やせ? 無理なんですけど!

 小宇宙をどれだけ燃焼できるかが勝敗の鍵とはいうが、その域に達していないのはもちろんだが――

「タナ……っ! やめ……!」

 耳の中をねぶられては集中などできるはずもない。
 しかし不意に刺激が止む。すかさずは耳を覆って、第2波に見舞われないように防衛した。

「そらみろ、ヒュプノス。呼んだであろう?」
「……そうだな。息づかいの問題のような気もするが」
「は?」

 喉の奥で笑うタナトスは、自身の下で呆気にとられるを意に介した様子はない。これっぽっちも。その証明のように穏やかに兄弟間での会話が始まると、それまでのことなど無かったように、タナトスは自然な振舞いでから離れる。
 ほっと胸をなでおろして、しかしまだ自分の中で鳴り響く警告音があるのも事実だ。兄弟の会話を邪魔しないように、そろりそろりとタナトスからの距離をとる。とん、と背中に当たるのはソファの肘掛けだ。どうやら端までは移動できた。
 膝を抱えて彼らを観察するなら、自分の知る双子と違って仲の良さは筋金入りのようだ。唐突に紅茶掛け合戦が始まることもないし、星も砕けない。実に興味深い。神話の時代からというが、その気の遠くなるような年月によくもまぁ仲違いが起こらぬものだと感心してしまう。共に過ごす時間が長ければ長いほど、衝突の機会は多くなりそうなものだが余程の相性の良さに違いない。

 しばらくは興味深く観察できるのだが、いかんせん会話に参加するでもないが飽きてしまうのは無理もない。だからといって彼らの談笑に参加するつもりはなかった。やぶ蛇など一番御免被りたい。
 こうして自分から興味がそれている時間が長いほど、身の安全は保障される。問題の先送りだとしても、悪あがきはするに限るのだ。


「おい」

 どれくらいの時間が流れたのか、時計のないこの空間では把握できない。は、としたのは暇をどうにかしようと室内で見つけた本に思いの外のめり込んだ結果である。影が差すのと、低い声が降るのとでは気付いた。

「あれ? ヒュプノスは?」
「自宮へ戻った」
「声かけてくれたらいいのに」
「お前が読み耽っているからだ。あれは優しいからな」

 どうやら随分と本に夢中になっていたようで、ヒュプノスは帰ってしまったらしい。わずかに会話した程度であれ、悪いことをしたとはぼやく。

「それで、お前はまだ読むつもりか?」
「タナトスが許してくれるなら」
「では却下だ」
「ダヨネー」

 栞を挟むよりも先に、本はタナトスに奪われてしまった。片割れがいなくなった。だから興味が次に移った。それだけのことにすぎない。

 ごく当たり前のように唇が重なる。慣れ始めていたのは確かで、は抵抗するつもりはない。

「先程の抵抗は何だったのだ」
「え? 人前であんなのムリに決まってるでしょ」
「……誰もいなければ問題ないのか? よく分からんな」
「まぁそういうもんだと思ってくれたら」
「むぅ、そのうちヒュプノスを交えようと……」
「絶対やめて!」

 やはり会話に参加していたほうが良かったのだろうか。知らないところで、この神たちはよろしくないことを着々と企てているのかもしれない。

「二柱の神と交われるなどそうないぞ」
「なくていいわ! 早死にするフラグじゃん」
「否定はできぬな」
「…………」

これはマズイ。は顔を覆う。泣いているように見えるならまずは成功だ、が

「なんだ。泣くほど光栄か。分かるぞ。ニンフも喜ぶからな」
「ちがう!」

 タナトスは手強い。斜め上の反応を返してくるものだから、だって全力だ。

「い、今のところは! タナトス以外としてないから! その意を汲もう!?」
「俺以外、だと? 双子座の起こした騒動では乱りに――」
「あれは基本的にサガ限定!」
「……お前、よくもそのような嘘がつけるな。台帳には事細かに記載されているのだぞ」
「めっちゃプライバシーの侵害……じゃなくて! 過去は過去、今は今! あと注釈が絶対付いてるから読んどいて」
「チッ! うるさい奴だ。分かった、分かった。とりあえず今は俺に操を立てている。そうだな?」
「そうだって言ってんのに。おかげでサガを宥めるのたい――ナンデモナイ」

 全力になりすぎて失言の果てに、タナトスに青筋が浮かんでしまうのも致し方ない。彼は自分でない誰かが優先されるのをひどく嫌う特性があるのだ。

「ちが。ごめ、言葉のあやってやつ」
「ウジ虫どもの常套句よな」
「ひぇ、怒っちゃった?」
「いや、お前には言葉通り操を立ててもらう。意味を真に理解出来るよう分からせるまでよ」
「お、おてやわらかに……」

 タナトスはずいぶんと人の悪い笑みを浮かべて、の上に覆い被さる。引きつった笑みを返すは、分かりやすく観念していた。



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