ヤバいぞ。なんだこれ。
例えるならそれは貧血によく似ていた。首から上がスーッとしていて冷や汗が吹き出ている。暑くもなく寒くもないエリシオンで感じるその気持ち悪さは異常としか言えなかった。
もう無理だ、と思ったときには暗闇が広がっている。これもまた異常だ。このエリシオンに夜はないのだから――。
急速に意識が浮上して、まるで溺れているかのような感覚に陥った。慌てて体を起こすと、水中にいるわけではないようだ。底のない場所に落ちるような感覚は恐怖だったのだろう。くらりと目眩がして、堪らなくなって起こした体が再びベッドに沈む。
場所の把握をしたいのだが目を開けるだけでも、脳がついていかないらしい。ぐりぐりとこめかみを押さえて、は声を上げる。
「誰かいる?」
なにかに意識を集中するだけでも気持ち悪いのだ。一瞬感じただけの気配に確信なく訊ねるの声は、いつもに比べて元気はない。
「寝ていろ。じきに回復する」
「ヒュプノス?」
「お前はタナトスの神気に中てられたのだ。しばらく安静にしていろ」
はて、との顔が疑問に歪む。自分が倒れたのは記憶をたどる限りでは側にタナトスはいなかった。彼は召喚するが、移り気でを放って置くことが少なくない。気が向いたときだけ彼女と話をするし、触れる。だからも深く考えずに相手は猫か何かなのだと思うことにしているくらいだった。
しかしこの眠りの神がいう“タナトスの”と明確にされるのは、おそらく交合のそれが原因なのだろう。
「神さまの神気ってもっとありがたいものかと思ってた」
「生き物で在る以上は死と隣合わせなのだ。己では感知できないほどの底に淀み、溜まる」
「相性最悪じゃない?」
「そうだな」
「わたし、死ぬ?」
「それは分からぬ。が、脆弱な者が死ぬのは理だ」
そりゃそうだ。とはヒュプノスの説明に笑って頷く。
「死にたくなければ休むことだ」
「還してくれたら一発だと思うけどねー」
「喚んだのはタナトスだ。あれが完結する必要がある」
ふーん。とはまったくヒュプノスの言わんとしていることに理解が及んでいない調子では答えると、閉じた視界でも伝わる気配というものがあった。
「安らかな眠りを」
ヒュプノスが何をしたのか。そんなことを理解するよりも先に意識が落ちる。眠り自体を考えるなら痛みとは無縁のそれは生き物に馴染みの良い心地があった。
夢を見ることもなく、ただやはり急速に落ちているような感覚に恐怖しては勢いよく覚醒する。ガバリと思わず体を起こしたが、幾分調子は良い。
「……何時だろ?」
時計のないこの場所で時間を知ることはできない。空が移り変わるなら時の経過を感じることが出来るというのに、こうも代わり映えしないと気が変になりそうになる。それを誰かと話すことで誤魔化してもいるのだが、今日はそれがない。
「ヒュプノス?」
最後に会った彼の神の名を呼んでも返事はない。
そういえばあれは事務的なもので、彼もまた人間を嫌悪している。と仲間に聞いていたのを思い出す。すると律儀に彼が応える必要はないのだ。と至れば合点がいく。
このおもちゃでしかない、自分の意志などまるで尊重されない空間はひどく孤独を感じさせる。あと数時間もすれば聖域に還ることができると解っていても、解っているからこその愁いなのかもしれない。
広い部屋を見回す。外との隔たりを感じさせない大きな窓に、彼はいた。
「……タナトス?」
太陽はないが、似た光に反射する彼の髪は間違いなく銀色だ。タナトスとヒュプノスは双子というに相応しい相貌で、視覚的に見分けるには彼らの髪と瞳の色しかない。そして今、この空間を共用するのは死神だった。
「回復したか」
「見舞いの言葉の一つくらい出ないの?」
の嫌味に返答するつもりなど皆無で、音もなくタナトスは距離を縮めたかと思うとベッドへ乗り上げる。人とは違う瞳はおそらく中を覗きこみ、調べていた。生命の流れを感知するのは彼らには造作無いもので、触れることも必要はない。彼らが嫌悪する人間に触れるのは内に昂ぶる好奇心にすべて委ねられている。
「しぶといものだな」
「死んだら困るでしょ」
「ふん。魂をその器にねじり込んでやる。予定にない死は迷惑だ」
誰の所為だと。そう言いかけて続きの言葉を飲み込まされる。息が掛かるほどの距離で、見定めるかのような不躾な視線だというのに、否と言えない圧力を感じるのだ。
近い、と体を突っぱねようとした手もいつの間にか頭上に縫いつけられている。
「ま、ちょ! ヒュプノスから聞いてないの!?」
「聞いている。だが持ち直したではないか」
「俗にこれは病み上がりっていって……んんっ!」
労るところだぞ! と声を張り上げたところ、やはり彼は自分本位に五月蠅いとボヤいて口を塞ぎにきた。いやもしかすると今のは自分が大声を出さなければまだなんとか……などと考えるが違う未来を見れるはずがない。あるべくしてあった結果なのだろう。
ぐ、とねじりこまれた舌は先程の言葉とかけているのだろうか。だとするならたちが悪い。そうでなくとも悪い。
それまで通りの交合のための深い口づけにの睫毛が震えた。生気を吸いとられているのだ。きっと。自分でも狼狽えてしまうほど体の力が抜けていく。それと同時に心地良さが芽吹いて育っている。体の奥から熱が滲み始めると、それを察したようにタナトスはおもむろに口付けをといた。
「なにすんの……」
「物欲しそうな顔をしている」
「……一つ聞いても、いい?」
「許す」
「さ、催淫的ななにか使って……る?」
「どうだろうな」
「は? 許すって言ったじゃん」
「聞くのは、だ。答えるとは言っていない」
「うわぁ……。イヤな感じ」
「気が向いた時にでも教えてやる」
絶対教えてくれないやつだな。はそう確信する。
「ウソツキ」
「嘘ではない。そら、大人しく受け入れろ」
「むぅ……」
彼女のそれは死を前にした生存本能に因るものなのだから、そのうち辿り着くだろう。だからの思いなどは置き去りのままにして、タナトスは好きなように“愛でる”。壊れやすい彼女を。死なない程度に。