「この場に私がいる意味ってあった?」
訳わからん。とは場とは正反対になるであろう不快を露わにしていた。独り言ではなく、おそらくこの場では一番近い距離に座る眠りの神にごちたものである。
キャッキャウフフと笑うのは見目麗しいニンフたちだ。彼女たちは主の一人であるタナトスの側にはべり、笑みを浮かべ、時にはうっとりとしてみせている。つまるところはハーレムを見せつけられている状態だった。
対して彼の対にあたるヒュプノスの側には誰もいない。いや、いたのだ。始めは。ただタナトスが一曲披露してやろうと琴を構えるやそちらに移動したにすぎない。
なんとなく気まずく思って、が先程ヒュプノス側に寄ったのが経緯だ。
タナトスの奏でる琴の音は、悔しいながらも綺麗な音色であった。曲目も知らなければ、静かな音楽を聞き入る趣味もない。“上手”という表現が適切かは判らないなが、素直にそう思ってしまう。
遮ってまで褒め言葉を投げるのも憚られて、結局は手持ち無沙汰になるのだが――。
「何時もこんなことしてる?」
「手が空いている時は。封印される前までは神父になったりもした」
「うわぁ胡散くさそう」
「割と馴染んでいたと思うがな。見てみるか?」
「どうやっ……! ひぇ! いきなり膝の上にテレポテーションさせるの禁止!」
「目を閉じろ」
「話聞いて?」
「…………」
「わかった。わかったって……」
まったく兄弟揃って同じような圧をかけてくるのは何なんだ。と思いはすれど、下手なことをいってさっくり死ぬのはごめんなのだ。
タナトスのとき同様に愛想笑いを浮かべながらはゆっくりと目を閉じる。影が差すのも、気配が近づくのもよく分かってしまう分、ゾワゾワとむず痒い。背中を支えられてはいたが、不安な気持ちが拭えず知らずにヒュプノスのトーガを握りしめている。
こつ、と額に違和感を感じるのと同時に頭の中でぼんやりとした明かりが灯った。ゆらゆらと揺らめくそれはスクリーンのような役割を果たすのか、人の形をした影絵が浮かび上がってくる。そして鮮明になっていく。
「若くない?」
「人の体だからな。若い体のほうが動ける」
「なるほど」
ぷつん、と電源を切ったテレビのようにそれは消えた。先程同様にゆっくりと目を開ける。思いの外、顔が近く悲鳴が上がりそうだったが、同じ顔で見慣れたせいもあるのか、ごく、と喉が鳴る程度ですぐさま言葉が出てくる。
「え、顔めっちゃちか」
「様になっていただろう?」
「また無視する……」
人の話をまるで聞かないのは、この双子神の共通項なのだろう。さり気なく押し返せば離れていくだけ、眠りの神のほうがマシかも知れない。
いやどうだろうか。
ヒュプノスは長い腕を伸ばし、葡萄の実を一つ摘む。それを実に自然に、そうすることが当たり前のようにの口に放り込んだ。
「ちょ! おい、し……けど、恥ずか死ぬからやめ…、むぐっん……っ」
「タナトスにニンフをすべて取られては私も手持ち無沙汰になるだろう?」
いやいやいや、と手で制したところですり抜けて次がくる。ならばと強行にヒュプノスの手を掴んで制するなら――おそらく振り払うことなど造作もないのだが、の選択が同時にヒュプノスの選択肢を増やしていた。
ひどく整った顔で、葡萄の実を自身の口に運び甘噛する所作ですら美しいと言える。これが遠くから見るだけなら、も眼福だと素直に喜んだ。だが違うのだ。背中に回されている手に力がこもって鼻先が触れるほどに近くなる。
「ひ、ヒュプノスさん、それは……だいぶ、近い……ねっ!」
一蹴できれば楽なのだが、彼らにとっては遊びに過ぎず、実力行使は実に容易い。自分よりも下に見ている存在の反応を愉しむ。これは神にはありがちな嗜好の一つだろう。
はきつく目を閉じた。自分の力ではどうにもならないことに屈した瞬間でもある。
ふ、と顔に風がかかる。
おそるおそる目を開けるなら目の前にはタナトスがいるのだ。正確には入れ替わった。いや自分が入れ替えられているのだ。ニンフたちと。
「何を遊ばれているのだ?」
「助かった……? やだ、タナトスが神さまに見える」
「神だが?」
「今この時この瞬間だけ好感度爆上がりした。スキ」
上っ面だけのそれはとても軽薄で、不敬でもあるだろう。過ぎた難を一瞥するなら、もう彼はこちらに興味はないらしいようで、ニンフたちと朗らかに会話をしている。このビックリするくらいの切替の速さは羨ましくある。
「ちょっとあれ……スゴくない?」
「もとより俺が言い含めておいたからあれで済んだのだ」
「げぇ……」
「品のない声を出すな」
タナトスの視線は鋭い。むぅ、と口を噤むしか許されないはタナトスの膝から降りるようとする。そもそもこの死神は人間が嫌いなのだ。機嫌を損ねないことを、最も心に留めておかなければならない。
「ほう? ヒュプノスには大人しく抱かれるというのに、俺にはできぬと?」
「その語弊が丸出しの言い方とかワザとでしょ……」
先程と色くらいしか相違ない顔が近付いてくる。両手の拒絶など死の神には見えていない。
「なに、なんで? グイグイ来るじゃん……人間ごときに」
「人間ごときに俺が情けをくれてやるのだ。泣いて喜べ」
「…………」
「おい。そういう顔はやめろ。本当にお前は女を捨てているな」
「ちがう。傲慢さにある意味感心し、たと、っ……んぅー!」
「ふん。可愛がってやるというのだから身を委ねておればいいのだ」
「いい。いい。遠慮する。お気遣いなく」
「なぜ人間に気遣うのだ。俺がしたいことをするのだ。お前は喜び受け入れる。ただそれだけのことだ」
話が通じないな!知ってたけど!
は何言ってんだ。唇を手の甲で拭いながら、普段の人当たりの良さすべてを取っ払った本心丸出しの顔で反応して見せる。ここで通じるのはやはり人間だけなのだ。
タナトスは「不細工め」と遠慮もなく言うと、顔をよく見せろと顎を指先が持ち上げる。
「ニンフたちにはしてやらんことをしてやるのだ。光栄よな」
「はいはい。ありがとうございますー」
もう早くしてくれ。とは投げやりモードになって目を瞑る。大方、この男はヒュプノスが遊びで始めたそれを面白そうだと思ったのだろう。似ているようで似ていないが、やはり似ているのか。
そうだ。
ふ、と触れそうな気配を察したときだ。はパチリと前触れ無く目を開く。銀の双眸に自分が映り込んでいた。
「なんだ」
「殺さないでね?」
「? 今は殺さぬと何度も……」
「言質とったよ」
怪訝な顔ながらも望む言葉を聞くことができたはニヤリと笑ったかと思えば、するりと、体勢を変えて真正面からタナトスの膝に乗り上げる。唐突すぎる積極性にさすがのタナトスも呆気にとられていた、ところを、ぐいと引き寄せて唇を合わせた。タナトスの唇に甘噛みされていた実を舌で押し込んでやる。そこで漸く彼は自分が握るはずの主導権を奪われているのだと分かったのだ。
動揺の大きさを表すようにものすごい勢いで引き剥がされるが、突き飛ばされないだけマシだろう。
「殺さないって言っ……たたたたっ! 折れる! 折れるって!」
「くっ、貴様……っ」
ググッとタナトスの手に力がこもるが、すぐにとける。
「っ、良いだろう。お前の挑発に乗ってやろうではないか」
やってしまった以上あとには引けないが、タナトスの動揺には良しとする。自分だけが一方的に搾取されるのはつまらない。純情でもないのだから好きにしてやる。と皮肉っぽく笑みながらタナトスに自ずから口付ける。
「ふむ。短慮で短慮が釣れたようだな」
「ひゅ、ヒュプノス様!聞こえてしまいます!」
「ある意味で二人の世界だ。聞こえることはない」
喉の奥で笑う眠りの神の目に彼らはどうしたって戯れているようにしか見えなかった。