不揃いのこころ


タナトス @ 聖闘士星矢
Published 2022/05/20
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 「タナトス。は帰したのか?」

 ふと思い出したように話を振ってきた片割れであるヒュプノスを見て、タナトスは目を閉じた。
 先刻、兄弟のいう“娘”は彼のもとへ飛ばした記憶がある。時間にしておそらく夕刻前のことだったように思う。とはいえ、このエリシオンに夜はない。常に常春でいて明るい。太陽らしきものであって太陽ではない。故に、目を閉じることでもしなければ暗闇はない。
 そうして母のような闇の中で暫く考えに耽っていたが、ヒュプノスの言葉の意味はやはりわからない。

「お前が帰したのだろう?」
「少しばかり相手をしてやったが……。お前のもとへ戻ったのではないのか?」
「知らん」
「なるほど。このエリシオンで迷ったようだな」

 さて、とヒュプノスは薄く笑む。彼もまた死神と同様に人間を快く思ってはいないが、今現在は地上側とは停戦協定を結んでいる。主であるハーデスは先の戦いでだいぶ疲弊しており、ここで再び戦ともなれば冥王という存在が消失しかねない。

「ハーデス様が憂うようなことをするな」
「アレが俺に気安く触ろうとするのがいかんのだ」
「ほう? 興味深い。お前に触れるとは命知らずだ」
「笑っているぞ、ヒュプノス」

 信じられん。といった様相でありながら片割れは楽しんでいる。ヒュプノスは続ける。

の小宇宙は……南西か。お前のニンフが誘ったのではないか?」
「知らぬ」
「では私が迎えに行こう。その後は干渉してくるな」
「正気か、ヒュプノス? 人間だぞ?」
「そうだ。取るに足らぬ矮小な人間だ。問題はない」
「……」

 ヒュプノスの金の瞳は無言で異を唱えるタナトスの姿に興味をもっている。
 自分以上に人間を嫌悪する片割れがそもそもの発端なのだ。人間よりもこのエリシオンに暮らすニンフ達のほうが容姿は整っている。そして神である自分たちを敬い、愛をうたう。という人間の女は自分たちの価値基準からすればすべてが劣っている。それは間違いなかった。おそらく、主人であるハーデスが彼女に興味を抱いたことも一つの原因だ。気まぐれに殺すことは許されない。だというのに嫌悪対象である人間の彼女をこの場所へ呼び寄せたのは、他ならぬ死を司る片割れなのだ。

「お前が遊ぶのに連れてきたのだろう? その気がなくなったと言うなら私が貰い受けて困ることはないはずだが」

 なぁ? とヒュプノスの涼しい瞳は変わらない。面白がっているのだとわかってしまった。
 さて、と分かりやすく立ち上がるヒュプノスのそれはフリなのだ。途中までは。もしここで頑なにタナトスが留まるなら、ヒュプノスは行動に移す。それほど彼女という人間をまたこの兄弟神も興味の対象としていた。彼らが何かを分け合うのは初めてではない。ただそういう時は互いがそれを倦んでいることが多い。

「くそ。俺のニンフがやったのなら俺の責任だろうよ」

 倦まない神というのは実に自己中心的でいて、唯一であることを自負している。自分が思う通りを相手に要求することも多々ある。まだ愉しみを共有できるほど、タナトスはという人間には飽いていない。




「あ、やっと来た」

 小宇宙をたどるのは容易い。ちっぽけだがこの場所には異質なそれはある意味で輝くようにしてあった。
 が、今目の前にあるのは輝きなど放ってはいないし、何なら泥まみれだ。

 ねぇ、と汚泥まみれの手を差し出してきて、助けを求める。汚いその手を掴む気にはまるでなれない。

「ね、あんたの可愛い子ちゃんに底なし沼に落とされたんですけど?」
「無様だな」
「責任者として謝罪してくれない?」
「馬鹿なのか? 人間がほざくな」
「ハーデス様にチクる」
「やめろ。あの方を煩わせるな」
「じゃあ早く引っぱり上げて」
「…………チッ」

 裾をまくり、タナトスが手を差し出す。こんなことはしなくていいのだ。手を触れずともどうにでもなる、そんな力を彼は持っている。そんな彼が触れるのだ。はひどく驚いて見せた。間抜けな声付きで。

「え、なに。ヒュプノスと罰ゲームしてんの?」
「離すか?」
「うそうそ! ありがとう」

 掴む手から力を抜けば、それを補うようにからの力が加わる。とはいえやはりタナトスの扱いはひどいもので、は釣られている魚そのものだ。ただどうであれ首まで沼に浸かってしまったから本人も汚いという自覚はある。

「湖にでも入ればマシになるか」
「えぇー? お風呂に入らせてよ」
「汚い形で俺の宮を汚されてはかなわん」
「だからあんたのニンフが悪いんでしょ……」

 沈みこむことのない固い地面の上に足が着いて、ひと心地つく。間もなく、ぐいと手を引かれてしまう。問答無用なのだ。
 少し歩くと開けた場所に出て、言うとおりの湖がある。そう大きくはない、が、深さはわからない。

「潜ってこい。湖底に引きずり込まぬように先程伝えた」
「はいはい。上がったらそのトーガを貸してよね」

 する、とすべり抜ける手は躊躇いがない。振り向かないは歩きながらサンダルを器用に脱ぎ捨て、ザブザブと音をたてながら臆すことなく湖に入っていく。
 冷めた目で、ただそれを見届けるタナトスは早く自宮へ戻りたい。のだが、とぷんと音が立ったあと、彼女の姿はない。潜るというよりは落ちたようにも見える。わかりやすく苛立ちを吐き出して、タナトスは手をかざす。彼女の小宇宙を捉え、人には見えざる力で掴みあげる。と同時にが釣れた。彼女は無事だが突然引き上げられたことに驚いていた。

「あのさ、私のことを魚だと思ってない?」
「溺れていないか確認しただけだ」
「潜れって言ったの自分じゃんか」
「まともな見てくれになったのなら行くぞ」

 水の中に潜ったはびしょ濡れだ。体の線も見事に浮いているが、目的は果たした。タナトスは顔色一つ変えることなく、自身のトーガを投げ渡す。

「あわ、ちょ、服を絞らなきゃこれも濡れるって」
「今着ている服を捨てればいい」
「いやそれは乱暴でしょ」
「手伝ってやろうか?」
「ひっ、笑えないから!」

 赤く青く忙しく変わるの顔色を見てやろうと、タナトスは喉の奥で笑いながら上半身を屈めてみせる。
 この女は面白い。タナトスがを呼ぶ理由はそれしかない。
 ヒュプノスもまた死を与えることはできるが、自分の司る死は顕著だ。誰にも、何にも、生き物であるなら等しく伝わる。畏れられる。

「た、タナトス、近い!」

 そして彼女も例外ではない。だがやすやすと触れてくる。今もそうだ。押し返そうと突っぱねてくる。死を振り払うなら一瞬強く押し退ければいい。

「無駄な悪あがきはやめろ」
「い、ちおう停戦してるじゃん??」
「それを抜きにしても生と死は対なのだ。それくらい分かるだろう?」

 直に触れる手前、耳元で囁くように呪いのように囁く。言葉を作ったのは神ではない。人間が意思疎通を図るために作り出した。神に必要ない。いま言葉を発するのも人間に合わせているだけに過ぎない。いつだって神の世界は実力主義であり弱肉強食であった。

「しかし腹立たしくもお前はハーデス様の関心を攫っている。俺はあの方に悲しい顔をさせたくはない。故、決められた寿命までは手を出さない」
「でもアテナの聖闘士だから死後は拷問なんでしょ?」
「お前達が思うよりずっと俺たちは規律を重んじているぞ。アテナの聖闘士、まぁよかろう。罪状は神に対する反逆か?しかしこのご時世、神を敬い信じる者はどれほどいるのだ?神よ、とは言葉だけでその実信じてはいない。どうにもならないことを俺たち神のせいにしているだけだろう?」
「タナトスが賢く見えてきた」
「縊り殺すぞ」
「ごめんて。冗談。もっと聞きたいなぁ?」

 が愛想笑いを浮かべる。
 上っ面のそれは分かっていたが、自分の話に確かな興味を抱いているのもわかる。畏れを抑え、好意のそれとよく似た尚膨れる関心が向けられると気分が良い。

「ハーデス様もヒュプノスもお前ごときの何がいいのかは分からんが、俺の話を聞きたいというのは評価してやろう」

 言うやタナトスはトーガを奪ってぐるぐると巻き出す。それはもうめちゃくちゃに。

「ちょお!? なにして……っ!」
「俺が直々に運んでやろうというのだ」
「私はラグじゃないんだけど!?」

 抵抗しようにも簀巻き状態にされていた。ピーピーと叫んだところで、人間ごときの小さな訴えは、昔も今も、そしてこれからも、彼の神にとっては聞くに及ばぬ戯言の一つでしかない。
 キャンと吠えるを難なく小脇に抱えるタナトスの口角はつり上がっていた。


単純なので続きを書いた…ら思いのほか楽しかったやつですね。
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