まどろみの棘 続き
パチ、と目を覚ましたときは慌てた。寝るつもりはなかった。と、少し混乱気味に寝る前の記憶を辿る。
いつの間に眠ってしまったのか、よく思い出せない。
――たしか、
「あ、あれ? タナトス?」
タナトスの姿はない。
少し離れた場所に置かれている執務机も、主は不在だ。
つまり、彼の執務室に一人取り残されている。
「ほんと自分勝手過ぎる……」
いやこれは捨て置かれていると言えるかもしれない。
むう、と口を小さく尖らせて、まだ眠たげな重い体を立ち上げた。
大きく伸びる。
変な態勢になっていたのか、少し痛い。
「さて、パンドラたちのとこに戻るか」
お役御免ならば、との足は入口へと向かうのだが。ほんの少し、あの不遜な神の執務机に興味がわいた。誰もいない。これは好機だ。別に何かを盗むつもりも、引き出しを開けるつもりもない。机の使われ方を、ほんの少し眺めるだけで、彼女は良かった。
勝手知ったる訳では無いが、流石にそんなことくらいでは殺されないだろうと、は机に近寄る。思ったよりも大きい気はするが、教皇のものと大差ないかもしれない。
上等そうな万年筆がある。
とんでもなく、偏見だが、ペンを握る姿が想像できない。仕事をしているところを見てみたい気もするが、きっとゆるされないのだろうなぁ。とキッパリ拒絶してくる姿が目に浮かんだ。
「あ、出来てんじゃん」
短気な神にしては、机上は整理されていた。積まれた書類の一番上には、自分が持ってきた書類の束がある。それを手に取り、確認したが漏れもない。
帰るか。と思い直したときにそれは起こった。
「起きたのか」
「ひょわっ!?」
「……お前はもう少し小宇宙を感知出来るようにしろ」
音はない。扉の開く気配もなかった。
だとすれば、おそらくテレポーテーションで現れたに違いない。
歩くのも、瞬間的に移動するのも、実に神は気まぐれだ。
だから、の素っ頓狂な悲鳴は、断じて彼女が悪いのではない。
「し、心臓止ま、ると……思った。あ、とこれ、ありがと……」
バクバクとはち切れそうなほどの早鐘を鳴らす心臓を、軽く叩きながらは言う。
タナトスはこれといって彼女を気遣うでもなく、その小さな手にある書類に一瞥くれる。
「もうここに残る理由はない。帰っていいぞ」
「えぇ……冷たすぎない?」
「はっ、俺を見て奇声を上げる奴が何を」
「いきなり音もなく現れたら誰だってビックリするに決まってんでしょ。驚きのあまり手が出なかっただけ褒めてよね」
「お前の攻撃なぞ簡単に止められる」
「そういうことじゃなくて……」
は唇を尖らせた。
けれど、彼にはきっと分からないのだと、どこかで諦めている自分もいた。
引き留められたくなるような、後ろ髪を引かれる思い――そんな感情は、タナトスの辞書には載っていない。
タナトスは目を細めた。だがそこに情はなく、ただ冷淡に口角を吊り上げる。
「見返りが欲しいのか?」
「だから、違うってば! そういうんじゃなくて、……ちょっとまだ……はなす、とか」
だんだんと声がか細くなる。そして銀の瞳を伺い、触れ、浅はかであったことを知る。
話せたことが嬉しくなかったわけではない。
けれど、体の関係ばかりが表立つ自分たちの中で成立したこの一時はとても貴重だと。しかし、それもここまでだと告げられたような言葉に、名残が胸を掠めた。
そんな彼女の様子に、タナトスはわずかに視線を伏せる。彼女の感傷など、取るに足らない。
だが――その小さな残響が、なぜか耳に残る。
そのくせ、冷たく言い添えた。
「褒美はくれてやる」
言うが早いか、タナトスはの顎先をすっと指で持ち上げた。
驚いて目を見開いた彼女に、何の前触れもなく――唇が重ねられる。
そのキスは、あまりにも突然だった。
触れるだけのくちづけ。冷たい。けれど、静かに全てを封じるような、支配の意図に満ちている。
は硬直したまま瞬きを忘れ、タナトスの存在だけを感じていた。
唇の温度はすぐに消えそうなのに、胸の奥だけが異様に熱くて、動けない。
手の中の書類を、ぎゅっと握りしめる。
自分が失われないように。
唇が離れる瞬間、どちらからともなく、ほんの少しだけ名残を残すように相手の唇を食んだ。
挟むほどの圧でもなく、ただ確かめるように――熱を伝えきるように。
ふ、と息がこぼれる。
が息を吸ったのか、それとも彼が吐いたのか、わからないほどのささやかな気配だった。
タナトスは、くるりと踵を返す。
肩越しに視線もくれず、歩き去っていく。
今度は扉を開けて。
「そういうことしないって……言ったくせに……」
届かない文句は、扉が閉まる音に掻き消された。