ぽす、と自分のものではないベッドへ腰掛けるの髪は濡れている。拭きはしたものの、まだ拭くべきなのだろうがふと視界に入った本を何の気無しに読み始めるとこれがまぁ面白い。珍しいものを読んでるな、と部屋の主とのそぐわなさに意外性を覚えたが、まぁそういう扉はわずかなきっかけがあれば開くものなのだろう。
ぽた、と髪の毛先から水が滴り落ちるのをは気付かない。それほどのめり込んでしまっていたから、背後に人が立つのもそうだ。
「。風邪を引くぞ」
「んー」
その割に驚く様子がなかったのは、自分の部屋ではないということを彼女が忘れていなかったからだろう。
ベッドがわずかに沈んでも意に介さず、おもむろに頭の上のタオルで髪を拭く。拭いているつもりだ。
やれやれと後ろで苦く笑われていることを彼女は知らないだろう。
あまりにも無頓着なままでいるから、ついに男は動き出す。もともと面倒見の良い彼のことだ。我慢ならないのだろう。
「マーマみたいね。サガ」
穏やかな会話に口元が緩む。幼少の頃にも濡れた髪を拭いてもらったことがあった、と思い出して懐かしさがぬるま湯に浸かる心地よさのような感覚があった。ただ、それが濁らないのはだけで、サガの顔はといえば微笑を浮かべてはいるものの、仄かに昏い。背を向けたままのがそれを見ることはないのだが――気付いてはいる。
「おわった?」
「ああ。香油を持ってくる」
「要らないよ。サガみたいに長くないんだから」
「しかし……」
「あ、わたしがサガの髪に付ければいいのか」
昏い雰囲気に呑まれる気はない。は名案とばかりにそれまで読んでいた本を閉じて立ち上がる。寝台から離れた場所にあるチェストの中に、サガの私物はあった。そういうことを知っているのは、そういう知れた――知れてしまった仲だからだ。
手のひらに香油を馴染ませて、サガの金髪に馴染ませる。この柔らかい感触が中々クセになるもので、嫌いではない。幼少期も拙いながらによくやっていたのだ。今、目の前にいる彼にではないが。何が楽しいのかと、その人に聞かれたことがあった。
一つしかない。ゆっくり流れる時間が充足していて、幸せだと思えるからだ。
きっと、今も――。
「はい、おわり」
毛先が仄かに黒いのを見なかったことにする。
キュ、と音を立てて香油の蓋をしめる。
「」
上体をひねり振り返るサガは、ずいぶんと穏やかな顔をしている。自分の隣の空いたスペースをぽんぽんと叩くのは、ここへ来いということなのだろう。
はて、と思いながら従うと片方の手首をぐいと引っ張られる。慌てて、サガの膝に自由な方の手をつく。「なにするの」という言葉が口から半分だけ出る。半分は飲み込んだ。
「これは“私”がやったのだろう?」
サガの視線はの手首に向けられていた。薄らと赤い跡は拘束を思わせる。まだらな記憶しかない彼に“もうひとり”の動向をすべて把握することはできなかった。
「まぁそうなるけど……、痛くないからね?」
はキョトンとして答える。嘘は言っていない。
実にあっけらかんとして言うからか、サガはなんとも複雑な顔をする。
「すまな――」
「マッサージ。血行を良くすると跡が消えるのが早いかも?」
謝罪で済む話ではないと分かっていても、謝罪せずにはいられない。それを遮って、はにこにこと笑って香油をサガの手に持たせたあと、自身の両手を差し出す。
彼女はいつもそうして謝罪を受け入れてはくれない――。
手のひらに香油を垂らして馴染ませる。やってもらうことのほうが多い彼は、いつもそうしてくれるの真似をしているだけだ。
細い手首に浮かぶ赤い跡を覆うようにすれば、いとも簡単につかめてしまう。それほど彼と彼女の間の絶対的な差が存在していた。簡単に折れてしまうであろう彼女を蹂躙している。制御不能などとは言い訳でしかない。犯した罪は消えてはなくならなければ、彼女の優しさを食い物にしているのだ。
自分の行いがどう作用するのか不確かなままで、サガは少し不安げにの様子を窺う。彼女は薄らと口元をほころばせたまま、別に楽しいことではないサガの手付きをただ見守っていた。
「」
「なぁに?」
「……そろそろ休まなければ。もう2時を回ってしまった」
「そうだね。ありがと、サガ」
手をすり合わせて、なめらかになった肌触りには満足しているらしい。「おやすみ」とにこやかに笑みながら、挨拶のキスをサガの頬へ落とす。「また明日」の言葉は続かない。
離れがたい。
意識を手放して、“明日”また会える保証はない。
“自分”という存在が不確かで不鮮明で、足元がおぼつかない。
「サガ?」
は、として昏い考えに耽っていたことを思い知る。の声に意識を戻せば、彼女の顔は近い。挨拶のキスなど一秒とかからない。なのに彼女の顔は近いままなのだ。
呼びかけに応じようと名前を呼び返そうとして、おもむろにが唇を重ねてくる。驚きはある。あるがそれ以上に、惜別の辛さが増す。
燻っていた、まだ素知らぬフリを決め込むことができていた。それなのに彼女がいつも暴いてしまう。
腰に腕を回して膝の上に抱き上げる。抵抗のない小さな体がピタリとくっついた。
バツが悪そうなを尻目に、触れるだけのキスを続ける。
彼女と言葉を交わしたのは何時ぶりであったか。“あれ”は何を思っているのか。分かることはない、分かりたくもない。この束の間の逢瀬を無為にしたくはない。
触れるだけのそれを何度も繰り返す。贖罪の意も、彼女への果てない情愛も込めて、短い猶予に委ねて伝える。
“つい”と誤魔化す彼女と何度も口付けあっていくうちに、息が上がって先を望んでしまう。苦しそうに腕を突っぱねようとするのをサガは許さない。
――彼女と言葉を交わすのは久しぶりだったのだ。触れるのも、名前を呼ばれるのもだ。この短い時間の中で他にもたくさん彼女には伝えなければならないことがある。分かっていて、それを後回しにしてしまうほど、この時を惜しく思っている。
終わりを告げたのは自分だというのに撤回したくなっている。
「は、サガ……っ」
息を上げたのローブが肌蹴ていた。暗がりにも薄らと確認できる鬱血のあとはまだ鮮やかな色をしている。彼女は疲れているはずだ。だから休ませてやらなければならない。分かっていて求めるのはあまりに自分本位だと、そう頭で理解しているのに、欲が頭をもたげるのだ。
「なま殺しなんですけど……」
はしたなくてすみません、と蚊の鳴くような声では言う。そうさせているのは自分だったが、わぁと顔を隠す彼女が可愛くてならない。
「」
顔を隠す手の甲へ唇を寄せる。甘く噛んで、舐めた。
「眠るのは撤回してもいいか?」
指と指の間から不安気に覗く双眸と目が合う。コクコクと頷くものだから、やはり可愛くなって劣情の乗った声音でもう一度名前を呼んでしまう。覆う手を払った――。
「会いたかったの。サガに。すごく」
泣きそうな顔で言われて、自分も同じ気持ちであったなど――軽々しく口にできない身勝手な想いは、唇を重ねて誤魔化すほかなかった。