(うっそりと微笑んで の続き)
「ヒュプノス」
聞き慣れた声に、ふと意識を手放していたことに気付く。ヒュプノスはゆっくりと双眸を開いた。
神にとって睡眠は本来不要だ。だが、それを嗜む神もいる――形式のために、あるいは気まぐれに人間の真似をして。
彼もまた、そうして静かに目を閉じていた。
「……タナトスか。どうした?」
「どうした、ではない」
いつの間にか寝台の傍に立っていた兄神が顎をしゃくって示す。その行動の意味を図ろうとして、ふと自分の胸元が温かいのに気付く。
このエリシオンは常春で、不快になる暑さや寒さはない。目線を落とすと、すぅと穏やかな寝息をたてて寝るがいた。
そういえば、と思い出す――タナトスの神気に中てられた彼女の回復を促すために寝かせたのだと。そして、いつのまにか同じように目を閉じていたのだと。
「それは回復したか?」
「顔色は戻ってきたようだが、起きぬというのならまだつらいのだろうな」
「そうか」
ヒュプノスはの体を軽く抱え直す。油断すれば、その細い体は寝台から滑り落ちそうだ。
最低限の力で安定するよう支えを調整する。
その様子を、タナトスが無言でじっと見ていた。
何か言いたげな視線を寄越しながらも、結局は何も言わない。あえて口を出さない、その癖もタナトスらしい。
「気になるのならば変わるが?」
「俺が抱えれば悪夢に魘されるだろうよ。お前が抱えておけ」
「私が側にいるならば問題ない」
「いらん。そもそもお前、それを抱えておきたいのだろう?」
「そうだな。悪くはない」
ヒュプノスは口元に小さな笑みを浮かべるが、それは慈愛でも同情でもない。興味の対象を手元に置く、それだけの満足感だ。そんな弟神の様子を見て、タナトスは僅かに口端を歪める。
「壊すなよ」
「なにを。私のほうが人間の扱いは心得ている」
「見事に上辺に騙されているそいつが、お前の本性を知った時が見ものだな」
「ああ。私も愉しみにしている」
タナトスは短く鼻を鳴らしただけで、それ以上は言わなかった。
ヒュプノスは優しい――タナトスは確かにそう思っている。
自分のように人間を口汚く罵ることもなければ、駒に過ぎないパンドラや冥闘士を評価してやっているのがその顕れだろう。夜伽の相手になるならと喚んでいる女神の聖闘士でさえも、無碍に扱うことはない。
だがそれは、神たる所以のものであるとも理解していた。
人間をどのように見るかは問題ではない。最上位に在る神がそう扱いを決めている。人間の言う“優しさ”とは違うのだ。
なによりヒュプノスは死の神の片割れだ。直接の“死”と比べるなら、穏やかなものに違いない。しかし内在するものとしては、大差はない。
昔からそうだ。
ヒュプノスは人間の傍らに本性を隠して佇み、そして知らぬ間に奪う神だった。
「しかしヒュプノスが眠りを司るとはいえ、存外に図太いな」
「私の技に抗える者などそう多くはいない」
「そうは言うがな。眠っていたとしても、お前の神気を感じているはずだ」
「それだけ消耗しているのだろう。どこぞの神のせいでな」
「ほう? 珍しいではないか。いつもなら俺が飽くまで待てるだろうに」
タナトスは楽し気に口角を吊り上げ、疑問をそのまま口にする。
人間を玩具にすることは珍しい話ではなかった。それぞれが勝手に有することもあれば、共有することもあった。今回のように、先に興味を示したものが倦むまで一人占めすることもあった。簒奪も随分と昔の話だがあった。
「タナトス。お前には分からぬと思うが、が懐いて話しかけてくるのは可愛いのだ。ニンフ同様に」
「は? 大丈夫か? こいつはニンフではない。ただのウジ虫の一人だぞ??」
「そうか。お前のような短慮ではに懐かれるわけもないか」
「待てヒュプノス。さり気なく俺をディスるな」
「では懐かれている自覚はあるのか?」
「……っ、そんなものは必要ない」
ヒュプノスが最後に執着したものは何であったか。
タナトスはふと考えたが、無数にある記憶の数に早々に投げた。色事に関しては間違いなく弟よりも兄である自分のほうが好むと自負している。だからこそ、そのための相手として喚んだ人間に、よもや弟神の関心が向くなど思いも寄らなかった。
そうしたことを踏まえても、まだタナトスには遊び足りない。
人間を相手にするのは初めてではない。一晩もすれば壊れてしまう。だが、はそうではない。彼女にアテナの加護があるからなのか――程度にはよるのだろうが、それまでよりも長く保つ。初めてのことだ。
そして抱くたびに色を変える。拒む、甘える、怠惰を曝け出す。ニンフたちのように弁えることもなければ、従順でもない。それが面白くてならなかった。
「ふっ、タナトス。心配は無用だ。今はまだから聞くお前への愚痴で溜飲を下げておく」
「むぅ。俺は下手ではないぞ」
「……そんな話はしていない」
ヒュプノスは少し呆れた顔をして兄神を一瞥し、の頬を長い人差し指で撫でる。柔らかく弾力と温もりに、死が遠のいているのが分かる。
その時だった。
の呼吸が変わる。
ヒュプノスがそのまま様子をうかがっていると、睫毛が一瞬震えた後、はゆっくりと瞼を持ち上げた。
うろとした瞳に色が戻ると同時に、彼女は小さく悲鳴を上げる。
「ひぇ、何この状況。怖い」
突如として視界を双子神の顔が占めるものだから、思わず彼女は自身の服を握りしめた。混乱の中、視線を泳がせる。ヒュプノスを、そしてタナトスを順に見やり、またヒュプノスへと戻る。
「……ヒュプノス?」
「ああ」
「……こういう状態で眠りについたっけ?」
「寝返りがひどく、落ちそうになっていたのだ」
小さく息を整えるように呟き、胸の中で身じろぎする。腕を解いてもらうわけでもなく、強く抱きしめられるわけでもない。ただ、しっかりと支えられていた。確かに落ちないように抱えられていたのだろう。
そのまま信じてもいいというのなら――
「……ありが、とう?」
戸惑いを隠せない声で、それでも礼を言う。
ヒュプノスはその言葉にわずかに目を細めた。
「死ななくて何よりだ。」
その声は穏やかでいて、しかし境界を曖昧にする優しさがあった。
心から心配しているようにも見えたし、ただ興味深そうに観察しているだけにも思えた。
は気まずそうに視線を逸らす。理由は分かったもの、落ち着かない。心臓の音が嫌に大きく感じられた。
「あの、ヒュプノス……。そろそろ放してもいいんじゃ……?」
ヒュプノスはゆっくりと微笑んだ。腕を緩めるものの、完全には解放しない。彼の声は柔らかく、確かに優しいのに、どこか揺らぎがある。
「無理はするな」
彼の優しい声音は、の意識をそっと誘導する。まるで深い眠りの海に沈んでいくかのように、彼女のまばたきはゆっくりと重くなる。眠りを司る神の囁きとして染み渡る。
その様子を斜めから眺めていたタナトスが、鼻で笑うように息を吐いた。
「……随分と熱心だな。抱かぬとは言ったが、眠らせるのは好き放題か」
ヒュプノスは視線を逸らさずに、腕の中のを支えたまま淡々と応じる。
「必要なことをしているだけだ」
「お前の言うそれは、いつも甘ったるい」
ヒュプノスは、腕の中のの髪をそっと払った。
「気に入らないなら、自分のところへ連れていけばいい。お前が喚んだのだから」
タナトスの目が細まる。
すぐに返す言葉はなかった。
連れて行くと言えば、弟の言う通り「惜しい」と認めるようなものだ。それを言えるはずもない。
だが納得して黙るのも癪だった。
結局タナトスは低く鼻を鳴らすだけで、口をつぐむ。
その視線は氷のように冷たく、だが僅かに面白くなさそうな色が滲む。
ヒュプノスはその反応を特に気に留める様子もなく、落ち着いた呼吸を刻むをもう一度支え直した。
「ちっ、俺が帰還させねばならん。回復したら連れてこい」
言い捨てたタナトスの背は、風のように消える。
残された空気にはなお、苛立ちの余熱が揺れていたが、ヒュプノスは眉ひとつ動かさない。
静かな部屋に残るのは、眠った人間の柔らかな寝息だけだった。