「眠れない……」
はごちて、ごろりと寝返りをうつ。薄っぺらいカーテンに遮光は期待できないが、この人工的な灯りの乏しい聖域では十分に務めを果たしているほうだろう。薄っすらと部屋の中が見えてしまうのは、夜目が多少なりとも利くからなのか、月明かりなのかは分からない。
ふぁーとあくびが出る。出るくせに眠れない。寝ようとベッドに入ってかれこれ2時間は過ぎていた。
それでもようやく、うつらうつらとしてきた時にビクッと体が反応して妨げられる。不自然な態勢でもないのにジャーキングの忌々しさに、は大きくため息を吐き出した。
「眠れないようだな、」
は一人で暮らしている。十二宮の入口近くに小さな小屋を構えていて、来訪者はよくあれど、さすがに家中の灯りをすべて落としたこの時間帯にはないのが普通だ。たいして役に立たないだろう鍵だって一応かけてはいるのだ。
鍵が開いた音も、壊された音もない。ただ突然、その声は降ってきた。驚きはしたものの、脳内に刻まれた声の持ち主の名を呼ぶのは容易い。
気だるげに体を起こすなら、先程まで自分だけしかいなかった部屋の窓際に大きなシルエットが佇んでいる。足音すらなく近づくそれが月明かりに晒されて顔が明らかにされると、は苦く笑った。
「お仕事ですか、ヒュプノスさま?」
の問いにヒュプノスは「そうだ」と短く答える。そして流れるようにベッドに乗り上げてくる。重さを感じさせる彼の足音などなかったというのに、この簡易なベッドは容易く軋む。警鐘のように。
「眠らぬ悪い娘がいるのでな、目の前に」
「眠らないんじゃなくて、眠れないの」
「ならば手伝ってやろう」
「見返りが必要になるやつ?」
「死後の楽しみとして取っておくと良い」
「えぇ、こわ……」
ひどく整った、それでいて無表情なヒュプノスはやはり相好を崩すことなく見下ろして、平淡に言う。
「冗談はさておき……お前が養生せぬのなら、タナトスを諌めた意味がなくなる」
ああ、とは納得する。これまでの頻度を考えるなら、たしかに今頃ならエリシオンに喚び出されていたかもしれない。あの尊大な死神に。
「それは……まぁ、ありがとう?」
ヒュプノスの気まぐれな慈悲がを救ったことに変わりはない。棚ぼたのようなよく分からないものであるものの、礼を口にしてみる。が、彼の相好に変化はない。社交辞令の言葉のやり取りくらいはあっていいだろうに、薄い唇は一文字に引き結ばれていた。
「キレイな顔でだんまりされると怖いんですけど……」
そう訴えてもヒュプノスが返事をすることはない。やろうと思えばきっと彼は言葉も身動ぐことすらなく、を眠りに誘うことができる。だが、あいにくと穴が空くほどに凝視されている今、眠気はまったくない。あるのは、焦りだ。「怖い」と口にはしたものの少し違う。
射抜くようなそれに指先から力が抜けてしまう。震えているかもしれない。目を閉じて逃れてしまえば良いのかもしれないが、悪手になるとも分かっている。
エリシオンではないここに、彼ら双子神の間で取り決められた不可侵のルールは存在しない。彼に必要なのはからの許諾または拒絶だ。しかしそれはあってないようなものでもある。いとも簡単にの言葉を彼は抑圧してしまえるのだから。
言葉の抑圧に比例するように、ヒュプノスの体の重みが加わる。呼吸を阻むほどのものではないというのに、息苦しい。
息を呑むほどに、彼の容姿は整っている。
言葉にせずとも、彼の思うように糸が張り巡らされているのだろうか。重すぎる緊張に、思わずブランケットを握りしめてしまっている。
「ヒュプノス、あの……」
耐えられない、と口を開けども何を言えばいいのか分からない。
ギシ、とベッドが軋んだ。ヒュプノスが体の重心を動かしたのだろう。ぎゅうと握り込んでいる拳に厚い胸板が押し付けられて、ますます距離が近くなる。物言わず、彼は促していた。あまり分かりたくはなかったが、分かるほどの関係性になってしまったのは幸か不幸か判断しかねる。
両の手から力が抜けたかわりに、ヒュプノスのトーガを軽く掴んで引き寄せる。
「決まったようだな」
「死なない程度で……ね?」
「口付けだけでは聖闘士は死なぬ。緩やかに眠りに落ちるだろう」
「多分それは一般的にきぜ……ナンデモアリマセン」
すぅ、と冷え込む空気に慌てて愛想笑いで誤魔化す。何ならヒュプノスの背にを腕を回して、先を急かす。
すると、気を取り直したらしい眠りの神は唇を重ねてくる。わざわざ触れずとも眠らせることなど容易かろうに、意図して触れることを選ぶのは気まぐれに他ならない。
肉欲的なものでないというのに、ふわりふわりと心地が良い。頭の芯が蕩けるように理性を放棄し始める。蝕まれているのだ。
「ヒュプノス……っ、なん、か……くらくらする……」
「じきに馴染む。下手に抗うな」
「う、……っん」
悪く捉えるなら彼からの行為は殺しにかかっているようなものだ。死ななければいいと思っているのはヒュプノスばかりで、からしてみれば結果論にすぎない。意識をずるりと引きずり落とされそうな感覚に抗ってしまうのは、やはり彼が死に属する神だからなのだろう。それでもまだ優しさがあるからか、それとも彼しかいないからか縋ってしまう。
ぱた、とヒュプノスの背に回っていた腕が力なく落ちた。事切れたと思わせるそれだが、は呼吸を忘れてはいない。の住む場所が加護の範囲外であったとしても、主神の統べる場所を間違わなければ、平常に戻ろうと作用するのが理であった。この地上はアテナが治めている。だから地上にいるならば、彼女には常に良いように働くのだ。
深く眠りについたらしいの頬を手の甲で撫でてやるが、反応はない。無理に眠りに追いやったの顔色は少し悪かった。
触れなければ良かったのだ。
触れなくとも良かった。いや、触れないで施してやればこうも生命は削られてはいない。
兄のタナトスほど彼女に執着していないつもりだったが、ヒュプノスは少し冷たくなってしまったの手をブランケットの中におさめてやりながら、自身を鑑みていた。
神話の時代から生きていて尚、考える余地は常にあるのだ。