「ひゃに、ひょのひょうひょう?」
「何を言っているのか分からん」
は事もなげにそう言われて深く眉間に皺を寄せる。うまく喋れないのは、この無遠慮に人の頬をわしづかむ死神のせいなのだ。ちなみに少し痛い。
「餌付けしてやろう」
「いひゃひゃい」
「?」
「ねえ、助けて」とは側で我関せずと優雅に紅茶を嗜む眠りの神に視線をやる。無表情な彼の金の瞳と確かに己のものが合ったというのに、まるで助ける気はないらしい。
「やめて」とくぐもった声とともに、はタナトスの手を掴み離そうとするがますます力を込めてくる。もちろん痛い。痛いから彼女の顔は違う意味で歪み始める。
「タナトス。は痛いのではないか?」
「む、そうか。弱すぎて力の加減が難しい」
「は? ニンフの顎をわしづかんだことあんの?」
「あれは素直に餌付けされる。お前が享受せぬのが悪い」
さもありなん、とタナトスは言ってのける。
自分の言葉は全て正しく、意にそわない者が間違っているとでもいうように。もちろん尊大な彼の考えは今に始まったことではないのだが、思いつきに付き合わされる方はたまったものではない。いつものように放っておいてくれればいいのだが、気まぐれにおもちゃに手を伸ばすから性質が悪い。
「口を開けろ」
「いい、いい! 聖域のマーマに知らない人にもらっちゃダメって言われてるので……」
「人ではない。神だ」
「そういうことじゃないっ」
飽きもせずにのびてきた手をはペシリと叩く。その拍子にタナトスの指から果実がぽとりと落ちた。
嫌がられるまでは想定内として、叩く行動についてはその外だったらしい。コロコロと転がるそれが止まるまで、二人して見届ける。
「わ、私は悪くない、よ?」
「ふん」
にこ、といつもの愛想笑いを浮かべるを見て、タナトスは鼻で笑う。そうして自身の手から叩き落とされてしまったものを手に取るが、それはボフという音を立てて消し炭となった。
「え、こわ」
「お前のせいではないか」
「えぇ……そ、そう?」
首を傾げて考えるが、はもちろん腑に落ちない。そもそもの原因は彼にあって、役目を全うすることもなくこの世から消えた果物の哀れな運命は自分のせいではない。絶対に。
それでも何となくおぼえる罪悪感に苛まれてしまって、はむうとそれ以上何も言えないでいる。下手に突っかかろうものなら、揚げ足を取られかねない。彼らはそういうのが上手いのだ。
「しかしお前たち、いつもこのように茶会まがいなことをしているのか?」
「まぁ……どっかの神さまがその気になるまで暇だし?」
「ヒュプノスも無理に付き合ってやる必要はない」
「思いのほか楽しいものだぞ、タナトスよ」
「お前が納得しているならそれでいいが――」
「待って? なんかナチュラルに私のわがままに付き合わせてるみたいになってない? おかしくない?」
そして死神に至っては自分を喚び寄せる割に扱いが雑極まりないので、いっそ喚び出す理由を知りたいほどだ。が、問うたところで一貫して彼の答えは変わらないものだから、それ以上でもそれ以下でもない。
むす、と扱いの粗雑さにが顔をしかめていると、その視界にすいとヒュプノスが手を伸ばす。
「。落ち着け。タナトスなりの戯れだ」
「楽しいのは本人だけのやつね」
「これでも食べて心を鎮めろ」
「むぐ…っ……ありがと」
ため息を漏らす口の中へすかさず、彼はぶどうの実を一粒放り込んだ。
このエリシオンに成る果物はどれも極上の味を誇っている。だから彼女は放り込まれたそれを嫌そうに食べることはない。
「待て。俺からの餌付けには応えぬのに、ヒュプノスには応えるのはなぜだ?」
「今見てた? 問答無用で口の中に放り込まれてたでしょ」
「そら」
「話を聞こうか、タナトスさま」
「食わぬではないか」
「…………」
要らない、とは手のひらを見せてタナトスの戯れをすかさず制する。もちろん不快に顰められた表情を向けられるのだが、如何ともし難い。
「じゃあタナトスが私の手から食べられたら応えるってのは?」
「なぜ俺が人間ごときから施しを受けねばならんのだ」
「施しっていうかちょっとした遊びのつもりなんだけど。それこそ戯れ的な。まあその顔からしたら交渉決裂だね」
はい、おしまい! とは両手を打って話を終わらせる。もちろん彼らがそれを良しとするかどうかは別の話である。そしてそうはならない。
「その話には私が乗ってもよいのか?」
「ヒュプノスは絶対タナトスみたいに嫌な顔しないでしょ」
「分からんぞ?」
「わかる、わかる。無表情で事もなげにやってみせるね」
珍しく口端に笑みをのせるヒュプノスがそう名乗り上げるが、が見たいのはあくまでタナトスの歪む顔であって優しく自分に接してくれる弟神がどんなに兄神と瓜二つの相貌だとしても決して違う。ギャフンと言わせたい相手はあくまでタナトスなのだ。
「」
だから彼が今まで通り優しい声音で命じてきたところで、もやんわりと否と答える。とはいえ、神は昔から諦めが悪い。
「」
「う、顔がいい」
「俺と同じだぞ」
「性格が顔に出てるからヒュプノスのがいい」
「ほう? 俺たちに優劣をつけるとは……よほど死にたいらしいな」
「ひえ! 暴力ダメ、絶対!」
ヒュプノスは知っている。こうしてタナトスが彼女を玩び始めると、決まって助けを乞うてくる。引き攣った愛想笑いでタナトスを宥めながら、ちらりと目配せをしてくるのだ。
助けてやってもいい。だがそうすると兄神が気を悪くする。
どうしたものかと、それぞれがなにか言いたげに見てくるのを眺めながらヒュプノスは考えに耽ける。
「ヒュプノス。つけ上がらせるだけだ。余計なことはするな」
「だそうだ。」
「ひどい。ヒュプノスだけは味方だと思ってたのに!」
ひどい、と、再度嘆いては顔を覆う。仰々しく。
指の間から覗く全く濡れていない彼女の双眸は、どちらかといえば悪戯な色を見せている。
「どれ。機嫌を和らげてやろう」
「へ? いや、それは頼んでないっ! ちょ、まっ!!」
「莫迦な奴だ」
ヒュプノスがテレキネシスでを側に喚びよせるのは珍しいことではない。即座に逃げ出そうとする彼女の腰に腕を回して阻むのも慣れてしまった。
「が、ガッチリホールドってやつかな……?」
「腰を落とせ」
未だ逃げることを諦めていないの腰は宙を浮いていて、ヒュプノスは静かにそこに力を入れる。声を張り上げる必要はない。彼女は受け入れる――そうするしかない。やり取りの塩梅を互いに心得てはいるものの、分が悪いのはやはり人間であるなのだ。
「諦めないね……」
「愉しそうなことを言い出したのはお前ではないか」
逃げる気をなくしてみせるではあったが、ヒュプノスの拘束はゆるりと緩くなるだけで解けることはない。
「タナトスに手を出してうっかり殺されては困るのでな。私にしておいてくれないか?」
“うっかり”の使い方に違和感を覚えるものの、あれよあれよとぶどうを一粒もたされる。落とすことも可能なのだが、そうしたところで逃れることはできないだろう。また新しいものを用意されるにちがいない。そして、ここまで来てしまうと諦めからの自棄を暴発させるしかなかった。
「おい、お前もヒュプノスに下手に手を出すと――」
「タナトス。それは少し狡いのではないか?」
が覚悟を決める代わりに諦めを吐き出す。自分の思うとおりに事が動き始めて気分が良いというのに、水を差そうとする兄神をヒュプノスは許さない。普段は彼の好きにさせはするが、すべてではないのだ。
珍しくもヒュプノスが手を伸ばしたがっている。あからさまな態度に思わずタナトスは目を見張る。
弟神は自分が手にしたものに興味を示すことなどめったにない。あったとしても、この静かな弟神はやはり自分よりも冷めた態度を崩さない。言葉にされた彼の不満が随分と久しいもので、タナトスは驚きつつも「好きにしろ」と放つ。適度に発散させておくのは悪いことではない。タナトスも、そしてヒュプノスも互いにうまく付き合う心得はとうにおぼえているのだ。
「ほ、ほら。ヒュプノス」
彼らの間にある繋がりは深いが、どうしたってには理解できない。理解した気にはなれるが、彼らの見る境地にたどり着くことはない。だからはこの二柱の神が仲違いしてしまうのではないかと先走ったことを考えてしまう。
彼らの仲など自分には関係ないとは思えど、ハラハラさせられるのはあまり気分の良いものではない。
だからは彼らの気を逸らさせるために、今自分に最も近い距離にいる神の名を口にするのだ。
名を呼ばれたヒュプノスは緩慢にその言葉の持ち主に目を合わせる。それまで嫌がる素振りしか見せていなかったが、いつもの愛想笑いを浮かべてそれを運んできた。
ふに、と唇に押し当てられた果物は少し冷たい。一口で食べるのに十分な大きさを、彼はわざと薄く口を開くにとどめる。口の中に押し込めて終わらせたいのだろうが力を入れるが、あまりにも短い戯れを引き延ばそうとヒュプノスは舌でそれを押し返した。
「ちょっと?」
「ヒュプノスは少しずつ食べるのが好きだぞ」
「少しずつ食べるほどの物じゃないよね。ブドウって」
「ほら、ちゃんと持ってやらねばヒュプノスの口から零れ落ちるぞ。餌付けるのだろう?」
タナトスの言葉を肯定するように、ヒュプノスのの手を掴む手に力が入る。つ、と冷たいものが流れる感覚に手元を見るなら、歯を立てたのか果汁が滴っていた。いささか味気を失ったに違いない。が、それまで食べるのを先延ばしていたくせに、ぱくりと次にはもう食べている。
「も、もう手を離しても良いんじゃない?」
「……」
「こわい、こわい」
ヒュプノスは基本的に無表情だ。くわえて口数も少ない静かな男神だ。
に読心術の心得はなく、そしてあまりに整えられた顔立ちが強調する無はどんなに読み解こうとしても欠片にも触れることはできない。代わりに与えられるものは畏れかもしれない。
タナトスとは違う畏れを確かにヒュプノスは寄越す。耐えられるのは、彼らが少しばかり抑えてくれるからか、または彼女がアテナの加護を少ないなりに得ているからか、それら両方なのか。
「汚れてしまったな」
だから彼がいつも行動を示す段になって気づいたときには遅い。気づけていてもどうにもならないことも多い。
「これなんのプレイ……ひぃっ! タナトスたすけて〜!」
「下手に手を出すなと言っただろう」
「噛みつくとか聞いてないっ!」
「噛みつかぬとも言っていない」
「ヒュプノス! ストップ! 神さまの威厳に関わるからやめておこう!」
「この程度で損なわれるものではない」
「ちょっとタナトスは黙ってて!?」
舌先が肌の表面を撫でる。
手のひらを舐められるなどどう予想できたというのか。なんてことをするんだという気持ちと共に、彼の顔に思わず爪を立ててしまわないようにピンと指を開く。それが彼の好きにさせることになったとしても、報復の体を取られることのほうが怖い。いっそ彼のしやすいようにして、早く終わるほうが得策とすら思えるのだ。
ものの数秒で終わることを、意図的に時間をかけていることなど分かっている。涼しく細められた金色の瞳が反応を覗っていた。
遊びはまだ終わらない。
の顔は分かりやすく引きつった。