「――。起きぬか。」
非常に頭が重い。目を開けることすら億劫に思うのだが、彼の神に応じなければならない。と、取り敢えず声を返す。
「そろそろ行き倒れのように倒れるのは止めてくれぬか。心象に悪い」
「いや、私だって倒れたくて倒れてない……。うう、気持ちわるい」
そう。悪いのはあの神。と彼らは同じ神を思い描いて納得する。そして、その原因たる神に言ってもおそらく聞き入れることはない。ヒュプノスは片割れの性格をよく分かっている。自身もそうだが、おそらく兄神よりはまだ移り気ではない。
「ニンフたちが怖がる。運ぶぞ」
「ありがとー」
彼女――が倒れていることは、その場に居合わせなくともヒュプノスは感知していた。まだ彼女がタナトスの館の範囲内にいるから、特に手を出す必要はないと思っていたのだがそういうわけにはいかなかった。
彼らに仕えるニンフたちは、使える主同様に人間という存在を快く思ってはいない。それは主から人間が如何に愚かで穢らわしい生き物であるかを神話の時代から説かれているからだ。外界に赴くことのない彼女たちの価値観が変容することはないに等しい。加えて彼女たちには双子神のような力はない。彼らを愉しませるためだけに存在する彼女たちに、己の力でという存在をどうにかすることは出来ない。恐怖の対象でもあった。
そういうことがあって、タナトスの宮に仕えるニンフの一人がヒュプノスに助けを請うのは不思議なことではなかった。これがタナトスの寝室で死んだように眠るのなら問題はなかったのだろうが、どうやらどこかに出かけようとしたらしくニンフたちもよく通る場所で力尽きたという。
兄神の不始末を片付けるのは珍しくはない。持ちつ持たれつであるから、かどうなってしまうかを知っているだろうに放って自由に過ごすのだ。ヒュプノスがエリシオンを不在にしているなら、タナトスもまたエリシオンを同じく不在にするということはなかった。もちろん、有事でなければの話である。
少し青白くなっているの顔を覗き込んだあと、ヒュプノスはその小さな体を抱きかかえる。ニンフたちにも怪我こそすればそうしてやるのだが、少し離れた場所から静観する彼女たちには異様な光景に思えただろう。とはいえ、彼女たちが主である彼らへの口答えなど決してあってはならないのも事実である。
「ひゃ! ちょ、ヒュプノスさん??」
「私の寝台で何をしようが勝手だ」
「いやまぁそうなんだけど! じゃ、じゃあわたしは床に転がっとくね!」
またこのパターン!とは自分の迂闊さを呪う。いやしかし、神気に中てられて死にそうなのだから仕方がない。ここに来るまでに少し回復したのだろうが、果たしてそれは良かったのだろうか。と、並の人間よりは回復力があるであろう聖闘士である自分を呪わないでもない。
というわけで、ヒュプノスの宮の彼の寝台ではその主に遊ばれている最中である。なんか前にもあったな、と既視感を覚えるが、そこを突き詰める必要はない。今この状況から解放されなければならないのだ。
広い寝台とはいえ、シーツ越しに体を押さえつけられては逃げるのはとても難しかった。なんとか片腕の自由を取り戻して、這うようにベッドの端へ移動しようとする。が、力の差をこれみよがしに見せつけるようにヒュプノスはの腰しへ少しばかり体重をかける。
「ぐぇ…っ」
「なるほど。色気がないな」
「ニンフにはこんなことしないくせに」
「する理由もない」
ニンフたちは素直に可愛がられようとする。のように逃げることはしない。恥ずかしがり屋なニンフもいるが、こうも頑なではない。
「あ、やば……っ、また頭がクラクラしてきた」
そんなことを思っていると、の体からくたりと力が抜ける。言葉に偽りはないようで、彼女の生命反応はやや弱くなっている。
聖域に戻れば、女神の浄化能力が作用するだろう。しかしここはエリシオンで聖域とは遠く離れている。加護の違う神のそれは過ぎたる効果となるのは致し方ない。
「遊びが過ぎたようだ。こちらへ来い」
それまでの威勢が急激に萎むと、ヒュプノスもいささか珍しく焦りを覚えてを抱き寄せる。
「ヒュプノス……?」
「タナトスが許可せぬ限りお前には手を出さぬ。故の戯れだ。そう警戒するな」
彼がを揶揄うのは、兄神の関心をさらっている事実への好奇心でしかない。そしてそれはあの兄の機嫌を損ねても構わないというほど濃ゆくもない。
「いや、うん……あの、だからひとりで眠れますので……」
「私が側にいたほうがより深く眠れる。悪夢に魘されぬよう見張ってやろう」
「…………もう好きにして」
ただ、その境界まではこの眠りの神も好き勝手にやるのだ。
不服そうな顔に諦めが混じえては目を閉じる。眉間にシワが寄っていたらしく、ヒュプノスがグリ、とそこをほぐすように触れてくるが間違いなく原因は彼にある。薄く目をあけて、彼は何を思って、どんな顔でそのようなことをしているのか。興味など持たなければ良かった、とは後悔するが好奇心に負けたのが悪い。
おそるおそる片目を開けてみれば、今更だがおそろしく整った相貌の眠りの神と目が合う。
自分の友人の一人に聖闘士一の美丈夫がいて、それなりに耐性はあると自負していたがどうも毛色が違うらしい。
完全な不意打ちとでも言えばいいのか、自身なぜ今になってヒュプノスに対して緊張しているのか、分からないでいる。これが神への畏怖というものかもしれない。
「そう気を張っていては消耗するだけだ。眠れ」
ヒュプノスは穏やかに言っては命じる。
おもちゃに抗う術はない。