「」
随分と穏やかに名前を呼ぶものだ。とは思った。彼は彼で人間をよく思ってはいないはずだろうに。敵対関係の保留とはどこまで効果があるのか。
同じような穏やかさを含ませては返事をした。
「タナトスと一緒ではないのか?」
片割れの所在など聞かずとも感知できるだろうに、ずいぶんと回りくどい。例えばそれがこのエリシオンで暇を持て余す哀れな自分を思ってのことなら、まあ嬉しいかもしれない。
ヒュプノスの片割れといえばだが、先程の返事を待たずに彼女を放ってどこかへ行ってしまった。放置するくらいなら帰してくれればよかったのに。というようなことを説明するものの、賛同を得られもしなければ、知っていると頷かれるだけだ。
「私の宮でもてなしてやろう」
「そうだねぇ」
そうして得られた申し出に、ぞくり、と悪寒が走った気がしないでもない。悟られないように平静を装って愛想笑いで返す。タナトスほど激情型でないにしろ、眠りの神にも十分な神の特性とやらはあった。いやそもそもタナトスと双子である以上、彼の表向きの柔和さを考えれば、そういったものを隠すのが上手いだけなのかもしれない。
「さぁ」
「はは、やっぱり拒否権はないのね」
差し出された手を払いのける適当な理由がない。柔い口調の下地に確固たる命令があって、は苦く笑いながらヒュプノスの手を取るしかなかった。
そう仕向けておいて、ヒュプノスの顔が僅かに驚きの色を浮かべるのだから、は訳が分からなくなる。
「無防備だと言われぬか?」
「断ったら永遠の眠りに就かされそうだったので」
「なるほど。自身の身の振り方は分かるか」
「皮肉はゴミ箱へどうぞー」
彼らは“愛でる”というが、いい迷惑であることに間違いはない。死にたくなるほどに純情でないから、彼らの思惑に収まっているに過ぎないのだ。仮に純情だったとして、自ら死を選んだとして、彼らはきっとおもちゃが壊れた。程度の認識しか抱かないだろう。
だから、彼らがおもちゃを手にしたことだけは確かなのだ。
応じたその瞬間に、はヒュプノスの宮にいる。タナトスの宮と造りは差して変わり映えしないが、調度品には彼らの個性が出ているらしい。らしい、というのはまだそれほど彼らの好みを知る仲ではないからだ。ニンフに寛容であるということくらいしか、は分かっていない。
例えば宮の至る場所に花が飾られているが、彼らは目もくれない。そうであることが常なのか、興味はなくとも寛容ゆえにニンフの好きにさせているのか。目障りでなければそれで良いのか。
としてはなんとなく、聖域の友人が喜ぶかもしれない。と知己を思い出すきっかけの一つでしかない。
「花が好きか?」
思わず耽ってしまい、突如として背後から、それも耳元で囁く声にの体はびくりと震える。何かを手にしていたら間違いなく落としていた。
長い腕が伸びて、生けられていたピンク色をした花を一輪取り出す。それをそのままへ差し出してくるから、ついつい受け取ってしまう。それほど慣れた流れるような動作であった。
「さすが普段から……」
「普段から?」
「ナンデモアリマセン。キレイダナー」
失言の一歩手前に慌てて体を硬直させるに満足するヒュプノスはスイと離れていく。すたすたと歩き出しても少し後ろを彼女が付いてくるのを知っていた。
そうでなければならない。
そうしてヒュプノスがを案内したのは、一般で言うところのサロンだ。一人だけの宮に、そして来客があるとも思えないこの場所には無駄に思える広さのそこに「好きに座れ」と言うのだから正直困る。結局、さっさと座ったヒュプノスの側に少しの間をあけて座ることになるのだが。とりあえず座り心地はとても良い。感触を楽しんでいると、当たり前のように飲み物が用意された。侍女も兼務しているのだろうニンフたちはやはり美しい。「ありがとう〜」とフランクに声をかけてみるが、まるっと無視されるのはいつものことである。
「これはヒュプノスのとこにもイタズラされるかな」
「タナトスのところほどひどいことにはならんぞ」
「そういう問題じゃないのよね〜」
いただきまーす。とおどけた後に紅茶に口をつける。これもおかしな話で、人間を嫌う割に人間の嗜好物を彼らは口にすることがある。果物は神話の時代からあったにしても、コーヒーや紅茶といったものは人が発明したはずだ。“人は愚かだ”と明言する彼らがそれらを口にするのを見るのは中々に興味深い。
「おいし」
「なるほど。お前は動じない」
「いつ殺されるかドキドキしてるけど」
「私はタナトスほど気が短くはない」
「それは分かる。でも人間は嫌いでしょ?」
「ふむ。一括りにしてしまえばそうだな。しかし悠久の時を生きる我らを魅了する人間も極稀ではあるが……存在するのは確かだ」
「……ゼウスみたいに?」
「節操なしではない」
「ごめんて。冗談だよ」
「よくタナトスに殺されぬな」
「タナトスは私が青褪めるのが楽しいみたいよ」
趣味が悪いよね。とは苦く笑って言う。それから「ごちそうさま」とカップをソーサーの上に戻して深く腰掛けて、リラックスして見せた。
タナトスほどに敵意を顕にしないからか、彼女のヒュプノスに対する態度はゆるい。目が合えば緊張の抜けた愛想笑いが出る程度には、彼のほうがマシだとも思っている。思っていた。
「青褪める、か。実にあれらしい趣向だ」
「タナトスと同じ顔してる……悪い意味で」
彼らは双子だ。本質が似ていても不思議ではない。
そうすることが当たり前のように、気付けば先程まであった距離がなくなっている。
「無駄に良い顔近づけないで」
ひく、と引きつりそうな顔に笑顔をのせて、は近づく巨体に向けて掌で拒絶を示す。
「ヒュプノスのこと信じてたのに」
「そうか。それはお前の勝手だ」
「そうね」
より近づいてくるものだから、は手に力を込めた、が完全な拒絶は許されないのを分かっている。だから彼らの相手はいつも自分が折れなければならない。嫌だという意志を彼らが汲み取ることは非常に稀なのだ。
抵抗がため息とともに抜ける。
抵抗を示した手にいつの間にか指が絡んでいる。情を通わせ合うなら合格点の行為にあげられるのだろうが、こちらの事情ガン無視なのだから、神さまってやつはこれだから……となるのも致し方ない。いやしかしタナトスに比べると……とが思い始めたとき、背後に圧倒的な存在感を感じた。それと同時に「そこまでだ」と低い声が落ちてきた。
「ヒュプノス。遊びが過ぎるぞ。まだ俺は倦んではおらぬ」
「なに、暇を持て余す客人へのもてなしだ」
ヒュプノスは突如として現れた片割れに気持ちを乱すことなく当たり前のように答えると、から体を離す。
「おい。戻るぞ」
「え、うん。ヒュプノス、ごちそうさま」
「ああ。、忘れてくれるな」
自分が呼び出したへの過度な接近を咎めるでもなく、タナトスは言いたいことだけ言うと自宮へ戻るために踵を返すのだが、慌ててついて行こうとする彼女を引き止めたのはもちろんヒュプノスだ。
目の前を過ぎる小さな手を掴んで、先程与えた花を握らせる。ただそれだけだ。
彼は惜しむことなく、あっさりと手を離す。だから彼のこれまでの行動の真意は全て有耶無耶にされて、他意があったのかどうか、にはわかりかねた。だが今はそれが都合がいい。
下手に囚われると戻れなくなる。
「ねぇ、タナトス」
「なんだ」
「この花の名前、分かる? 聞くの忘れた」
「それは……ネリネと言う」
「ふぅん。見た目が華やかで良いね。花言葉は?」
「――箱入娘」
「世間知らずってこと?」
「知らぬ。ヒュプノスに聞け」
ひどーい。大して気持ちのこもらない言葉を発して、は花を見つめる。そこではたと目が合うのだ。
「花に罪はないでしょ?」
自分に向けるものとはだいぶ違う柔い表情に、タナトスは面白みを感じ得なかった。
「ヒュプノス。あれに与えた花の真意は事実か?」
「好きに捉えるのが花言葉の興味深いところだろう?」
「まったく。もう少し待てぬのか」
「お前がそう気にするから私も気になるのだ。許せ、タナトス」
また会う日を楽しみに。