序
寝つけない。ごろりと寝返りを打つ。胸が苦しい。ああ、またか。なんて思ってしまうほど、またきた。弱いなぁとイヤになってくる。ズキン、と胸のあたりが痛い。息が苦しい。不快極まりない。それがイヤで気だるく思いながらも、のろりと、はベッドから抜け出す。
散歩をしよう。風邪を引いてもイイ。寝坊してもイイ。
このまとわりつく不快を殺したくて仕方がなかった。
そんな気持ちであったにもかかわらず半袖で出てしまったことに、後悔する。さむい。けれども上着を取りに行くのが億劫で、そのまま歩き回る。
静まり返っている。こんな時間帯に歩き回るなんて不審者そのものだ。
と、背後に誰かが立ったかと思うと、腕を捕まれた。ぐいと引っ張られるとバランスが崩れる。倒れそうなその時に、そうなるに至った当人に助けられた。
ライナス
「なに」
自分でも素っ気ないのはわかっていて、それでも普段はなるべく人当たりを悪くするように振る舞っていなかったからか、彼はずいぶんと驚いている。
「で、なに?」
「いや。こんな夜更けにあぶねーし」
「…………ありがと」
こちらから親しくなりたいからと接しているときは、冷たくあしらうくせになんだその優しさは。とは心のなかに止めるのだけども。表情には出たかもしれない。
そして今更ながら、どうすればいいのかもわからない。
「おやすみ。ライナス」
言えばきっと彼は応じるはずで、そうあってほしい。なのに、だ。
「待て。送ってやるから」
気まぐれなのか、牙の矜持なのか、それとも持ち前の人情なのか、喜ぶべき優しさが障って仕方がない。平時であれば喜んだその優しさに、いら、と今は顔が歪む。
「いらない」
喜ぶと思っていたのだろうか。ひどく驚いた顔をして見せられても、正直困る。愛想をいつもふりまけるだけの器用さも愛嬌も持ってはいない。むしろ、いつだって自分に正直で、年齢に不相応なのではないかとは思っている。皆、異世界に召喚されて長い自分を【順応力】という言葉で片づけるが、そんなことはない。今でも理不尽だと、腹が立つことはあるのだ。ただ、どうにもならないことに気を揉むのがバカらしくなっているに過ぎない。
「キレてても良いから送らせろ。あぶねぇんだよ」
腕を強くつかまれると、彼の、ライナスの意志の強さが伝わる。体が強張る。彼が怖いわけではない。ひどく悲しいのだ。
「ずるい。きらい」
普段の好意的な言葉とは真逆の言葉がの口から出ると、ライナスは目に見えて動揺する。ぶっきらぼうでありながら、初対面の相手を訝しむそれはもう無くなっている。仲間だという想いには到達していたに違いない。
ライナスがの言葉に対して、なにかを思うよりも先に、彼はぎょっとせざるを得なかった。ウソだろ、と目前の光景が信じがたい。あり得ないわけではないと知りつつも、初めて目にしてしまうと何も思いつかない。そんなことは想定外なのだ。
ボロボロと涙を流す様を見て、めんどくさい。と正直ライナスは思っている。泣く女の扱いは難しい。義妹のそれとは違うことくらいしか彼には分からない。妹にするように頭を抱き寄せていいのか分からない。抱き上げてビックリさせて涙を止めさせていいのかも分からない。同年代の女の扱いなど、彼は知らない。知ろうとも思わなければ、そんな機会すらもなかった。
のそのさまに毒気を抜かれたように、ライナスは思わず掴んでいた腕を離す。少し乱暴になった自覚はある。が、「悪い」の一言が出てこない。悪いとは思わないから謝罪するつもりなどない。
「」
とにかく虫の居所が悪いことだけは分かっている。彼女がなんと言おうが、とりあえず部屋に連れていって、そこからは心底嫌うなりなんなり好きにしてくれという気分だ。
感情的にならぬように、先を促そうと名前を呼ぶ。居心地が悪い。なんで外を出歩いてしまったのか、と数十分前の自分の気まぐれを呪う。
と、が自分を置いて歩き出してしまう。待て、と声を掛けようとしてライナスはやめる。自分達以外の気配があって、そしてそれは馴染みがない。
「あんたじゃないほうがイイんじゃないか?」
「あん?」
「少なくともあんたよりイイ関係でね」
「…………チッ」
影から聞こえた声がやけに挑発めいている。その声を知っていた、が、親しくはない。という人間がいて、通じた仲に過ぎない。元いた世界が異なる以前にあまり好きではない人種で、がなぜこの男となんだかんだ言いながら親しくしているのか、まるで理解できない。
「おい。弱ってる女につけこむなよ」
「さあ?」
わざわざ言う必要があるのかよ。と暗にカラダの関係を匂わすこの男がライナスは嫌いだ。そしてまた間抜けにそうした痕をつけられて尚、自分に親しく接してこようとするをライナスは理解できない。
視界の端に銀髪が見えたかと思うと、もういない。好意というよりは、自身の中での当たり前の行為だったが悉く空回りしてしまった。とんだ貧乏くじをつかまされた。と、ライナスは踵をかえすしかなかった
ゼロ
ライナスを牽制するつもりなどまるでない。が、ゼロとしてはからかいたくなる対象の一人であった。だがそこまで固執する相手でもない。少し時間を食った、との後を追う。部屋に戻るならそれはそれでよい。が、彼女はいた。人目が更になくなる東屋に。
「」
「今度はゼロか」
心底うんざりした物言いに「ひどく嫌われたもんだ」と笑う。ただ関係性からしてそんなものは日常茶飯事で、ゼロには痛くも痒くもない。
「お願いだから一人にして」
柱にもたれるは言う。涙は引っ込んだらしい。少し安心してしまう自分に驚くが、悪く心が波打つよりずっとマシだろう。「イヤだね」と言ってゼロはの前に立つ。はぁ、とこれ見よがしにため息をつかれたがまだまだ堪えない。
「今日は満月じゃないのに」
とことん悪い日だとは手で顔を覆う。これでは気晴らしどころか、ただ自分の精神が削られる一方だ。もう明日は部屋からでない。そう決めたくなるほど今すでにうんざりとしている。
澱んだ感情が沈んだままで、動くのも億劫だ。動くための活力を回復するためにも、放っておいてほしいというのに、きっとゼロはここぞとばかりに離れない。そういうタイプの人間だというのは付き合いから分かっていた。
「あんたが舐めあいを是としたんだ。俺にはナメる権利があるだろ?」
「しつこいのは──」
線引きがとても難しい。純情ぶるつもりのないには、ゼロをいなす方法が分からない。それでもこれまでも、本音でイヤだと言えば大抵引いたのだ。なぜ今までで一番の本音をぶつけているのに、とも思う。
顔を覆う手を取られ、視界が明るくなる。あまり明るくない月の明かりはそれでも十分に相手の顔を映した。相変わらずの澄まし顔で、隻眼が見下ろしてくる。物理的にも距離が近くなっていく。そんなことは今望んでいないというのに、お構いなしに唇を合わせてきた。
「……ゼロもずるい。ライナスとおなじ」
「やれやれ。今夜はコドモみたいだな」
「だから放っといてって言って……っ」
憎まれ口を叩いても、この男に効いた試しは残念ながらない。今の自分がとても面倒くさい人間になっているのは分かっていても止まらない。にもかかわらず、ゼロは離れてくれなければ、あやすように口付けてくる。甘言を吐くことのない男の手段らしい。
泣いて不満をぶつけていたからか、いくぶんか彼女からの当たりは弱くなっているように思う。先程の男は触るだけでも噛みつかれていたのだ。
は訊ねられれば過去を話す女で、ゼロの興味本意な問いにもしれっと答えた。だから彼女が少なからず心動かされてしまう、別の世界線の人間のことを、ゼロは承知している。
「俺の嗜好を知っといて?冗談だろ」
女を大事にする。ということがゼロにはいまいち分からない。主君であるなら命を差し出すとか、そうした明確な答えを持ち合わせてはいたが、異性にはからきしだ。オーディンに「ひねくれてるな」と誉め言葉をいつかの時に言われたが、それでまずいと思ったことは一度もない。
そうした点でとはおそらく相性が良かった。彼女も当たり前にある欲を自分勝手に発散させるのに都合のイイ自分を選んでいる。都合で十分だった。
「あー勃ちそ」
「…………」
の嫌がる顔が好きなのだ。ゼロはそれをオーディンについ漏らしたことがある。それが例の誉め言葉に繋がるが、個々の嗜好なのだからしようがない。びくん、と言葉に反応して、そうその顔だ。信じられないと疑う顔。両の眼に自分しかいない、一心に理解の範疇にいれようと彼女の中に自分で溢れている。
一生理解できなければイイ。思考が追い付くのを邪魔するように、の口腔内をなぶった。
「……ゼロ」
は漸く終わったゼロからの口づけの合間に、少し息を弾ませて名を呼ぶ。答えはどうあっても、今は否であった。
意外にもゼロは平然としている。
「まぁ下っぱには牽制になるか」
「……?」
「貸してやる」
おもむろにマントの留め具を外してそれを肩へかけるのだ。明日は槍が降るのか。
「感度がイイときに返せよ。約束したぞ」
自分勝手に決めて、ゼロはの両肩を掴みグイと引き寄せて首筋に顔を埋める。ぢゅう、と強く吸われる痛みに「いたっ」と悲鳴をあげたところで止まない。そもそも彼には止めるつもりがないのだ。痛みと、その時間と、おそらくそれは青黒く変色するようなものだろう。
「っ、サイテー……」
最高の誉め言葉だと言わんばかりにゼロは闇に消えた。
ロイド
はまだ部屋には戻らなかった。ゼロから借りたマントが寒さを和らげるから、寒さに負けて退散しようという気にならない。長椅子に腰かける。あれは三日月よりも細い、と視界に月を捉えてぼんやりとする。彼女の望んだ薄い無があった。
昔は良かった。と彼らを恋しく思う。今に不満があるわけではない。が、思い出の共有者がいないのは、この世界で独りであることを実感させる。なら、召喚士だって同じではないか、と論理的な理解を示したいのに、私は、自分は、と自己の感情が暴発している。この世界のからくりはよく分からない。死んだとしても、召喚されている人間がいるというのに。いや、世界線が無数にあるというなら、砂の中の砂金を掴む話なのか。と、少し冷静さを取り戻し始めた。
結局行き着くのは、無い物ねだりはしても無意味であって、今に順応するしか道はない。理解しているのに、ぽんこつなのか忘れてしまうらしい。八つ当たりをされた人は堪ったもんではないな、と他人事のように思った。
「あーあー早く砂金きて……」
言葉にするから余計に空しくなるのだろうか。きっと来ない。寂しい。と口にしてはいけない気がして、唇を噛んで顔を伏せた。
ぽん ぽん
頭を柔らかくたたく感触がある。はぁ、と漏れたため息に何が混じっていたのか、自身もわからなくなっている。そのまま顔を上げずにいた。するとその人はそばに座ったらしい。
「また……」
うんざりしたのは事実だった。無理矢理に他者のことを考えなければいけないのが、今は億劫なのだ。
少し顔をあげて、開いた視界に映る人は【彼】によく似ている。
また、これみよがしにため息を吐いては顔を埋める。彼は笑ったようだった。
を見つけたのは、まったくの偶然だった。ラガルトに散々付き合わされ、漸く解放されたその時に見つけたにすぎない。ラガルトも隣にいたのだ、が、悪友は早々に立ち去っていた。「ヤボなことはしないから安心しろ」と言っていたが
、どういう意味だったのか考えたくもない。
「歓迎されては、ないな」
いつもの人懐こい感じが抜けたにロイドは苦く笑うしかなかった。顔をあげたのは一瞬で、誰かを確認しただけだ。そしてまた隠すのだ。会話する気はないのだろう。
それはそれで構わないのだ。ロイドも少し酔っていると自覚していて、その場に腰を落ち着けた。のはそこにとどまるに十分な理由となりえるはずだ。
同じ長椅子に腰かけるロイドは、背中を預けて、頑なに顔をあげないをちらりと見る。彼女にしては珍しくマントを羽織っていた。酔いざましに良い空気の流れるここではそれは必要なのだろう。が、少し大きいらしいそれからは首筋がよく見えた。
青黒い鬱血痕があった。打撲傷には不自然で、それが何であるかに行き着くのは時間は掛からない。自身が触れての態度を見るに、ひどい目に遭わされた訳ではないのだろう。となれば、それは彼女の自由だ。
少し寂しい気分だった。
「。もう戻るぞ。ちゃんと寝るんだ」
どうしたって仕方がない。ロイドは少し白んできた空に気づいて声をかける。「やだ」と案の定の返事があったが、聞いてやる気にはならない。
「俺に抱き上げられて部屋まで行くのと、自分で歩くのと──」
まだ途中だというのには立ち上がる。本当に寂しいものだ、とロイドの口許が緩んだが、彼もまたおもむろに立ち上がる。「行くぞ」と続ければ、少し距離をおいて付いてきた。
隣が空いてやはり少し寂しい気分だ、が、ロイドは求めない。少し後ろから規則正しい足音が聞こえるだけで、今は良い。良かった。