時々立ち止まっては体勢を正すのには訳がある。重たい本を抱え直すそれは、多忙な召喚師に代わりに図書館へ返してほしいと頼まれた結果だ。
うず高く、とは誇張すぎるが、それでも分厚い本が5冊も積まれるなら小さな壁にすら見える。明け方、他国への偵察は数日留守にしていたゼロがエクラのもとへ報告に向かった時のことだった。
唐突とも言えるまさかの「貸してくれ」発言に、本人――は自分の意志が反映されないとは思ってもみなかった。口を出しはしたものの、自分がサポートするエクラは早々に了承してしまうのだからたまらない。猛抗議したものの、「本を返しておいて」と言われるし更には「終わったら今日はもうあがっていいよ」などと、良い上司のていでもってきれいに厄介払いされて今に至る。普段から対価を要求するゼロがおとなしく荷運びをするのは、そうして彼女のこの後の時間をいただくとの決定事項があるからだ。
「眠くてたまらない」
「人がそばにいて眠れるの? その仕事で??」
つくづく変わってる。と口にして笑う。
なにがなんでも拒絶、する気にもならない。諦めの境地とは言いすぎかもしれない。が、軽く付き合ってやろうという気分にはなっている。そういうのが伝わるのか、ゼロの機嫌は良いようだ。
「あんたは、まぁ……トクベツだな」
「それはそれは」
なんてことはない。ゼロの要望は寝ている彼の側にいることだ。この男は時々妙に懐いてくるし、甘えてもくる。その様は彼の同僚であるオーディンが気味悪がるのだから、推して知るべしといったところか。
ただ、は自分が好かれている自覚がある上に、そうした情を無碍にできない程度には彼との関係は良好であると認識していた。
ゼロの仕事柄、徹夜もしくは昼夜反転の生活は珍しくない。そのつらさはそれなりに解ってもいる。
中庭を抜けて近道でもするか、と提案したのはだ。途中にある芝の上に到達したとき、大きな声で名前を呼ばれた。
「あっちだ」
ゼロの言葉――彼越しに向こうを覗けば、たしかに顔見知りがいる。無邪気に手を振られてしまうから、も倣ってしまう。
「呼んでるな」
言われるまでもなくわかっている。だからは自分の持つ一冊の本を掲げたあとに、隣で両手いっぱいに本を抱えるゼロを指差した。声を出さなくともその身振りで伝わるだろう。伝わりにくくとも、あちらには5人ほどいるのだ。誰かが正解に導いてくれる。そもそも自分が彼らのもとに歩み寄っていかないのが、返事なのだ。
「へぇ?イクと思ったんだが……意外だ」
「先約があるから」
行くよ。声をかけて足を踏み出す。やや遅れてついてくるものの、足の長さのせいかすぐに追いつかれてしまう。
別にすぐにその場を離れたいほど、彼らとの仲は悪くはない。ただただ、頼まれたことをこなす。それだけだ。
なのに「」とゼロが呼ぶ。彼だって早く寝たいだろうに、行動があべこべで振り返るの顔は少し不機嫌だ。が、やはりゼロはお構いなしだ。
器用に一冊しか持っていないの腕の中に自分の持っていた本を渡してくる。当然ながらずしりと重く、よろける。
「ちょ……っ、」
「靴の紐がほどけちまったんだ」
よろけながらも倒れることがないのは、が自分でなんとか耐えられる体勢を整えるまで、ゼロが支えていたからだ。早くしてくれと睨むが気づいた。
ゼロの靴に使われているのはベルトだ。
「あ、この……っ!」
もう遅い。
ゼロはしたり顔での唇をかすめ取る。いや、それにしては少し長い。
「バババ、バカじゃないの?!」
一瞬、呆気にとられて反応が一拍遅れてしまう。ずざ、とすり足になりながらも後退するは、それでも本を取り落とさない。
「大丈夫さ。保護者がちゃーんと隠してる」
ほら、と顎でしゃくる先には、目隠しされたニノがいる。目隠しをしているのは眉根をひそめるロイドで、ライナスは心底嫌そうに顔を歪めて手で払う仕草をしているし、ジャファルの殺気は凄いし、ラガルトは顔を隠して体を震わせている。
「こっわ。わたし、ちょー悪ものになってんだけど……」
不可抗力を表すジェスチャーなんてあった?と記憶を探るが思い当たらない。そうして何かいい方法は、と考えを巡らせている間に、ゼロがまた本を受け取る。
「晴れて俺の仲間入りだな」
「うれしくない」
「イこうぜ」
ドン、と体をぶつけられる。どこまでも自由な男だ、と再確認する。 彼らにどう応えるのが正解なのかは分からない今、退散する他ない。
「そういう物欲しそうなカオは俺に向けて欲しいね」
どこまで本気なのか分からない口調で言葉だ。全部が冗談かもしれない。全部が本気なのかもしれない。ただそれを尋ねると墓穴を掘るはめになるのは本能的に分かっていて、聞こえないふりをする。でも彼はやめない。
「あそこに入れなくて悔しいか?」
「べつに。あそこは私の知る場所じゃないし」
「その強がってる割に歯痒そうな顔、イイねぇ」
かちん。かちん。
何度もこの男は地雷を踏んでいく。それもわざとだ。
「ないものねだりは疲れる」
「でも望まずにはいられない」
「そう見えてる?」
「ふとした時に本音が映えるのはよくあることだろ?」
この男だけが分かるのか。周りから見てもあからさまになっているのか。には分からない。後者だとするなら穴があったら入りたいくらいに愚かしく恥ずかしい。
「別に隠す必要はないだろ?」
「別に和を乱す必要もないけど?」
もう放っておいてくれ。
そう思っても男の口撃はやまない。
「輪の外でヘラついてるアンタがキライでね」
「んなこと言われても困るわ」
「奪えば面白いことになる」
「ならない。奪えない。思い出が重なってない」
面倒くさい。
は心底うんざりとしてゼロを見やる。
「ゼロ……」
「アンタのヤリたいことが見えてこない」
「やりたいこと」
「善人ぶるなよ」
彼の言うことが理解できない。善人ぶったつもりはない。自分と相性の良い人間と関係を築いているつもりだ。なにも、彼らだけと仲がいいわけではない。それはこの男もよくわかっているはず。なぜ?上手くまとまらない。
仲のいい人間が幸せそうに笑っているならいいじゃない。 その隣に必ずしも自分が居なければならないのだろうか?
そうして満足するのも、得られない自分への一つの線引であるし、気休めだとしてもそうして自分の心は少し軽くなるのだ。
嫉妬、それが漏れているのだろうか。
自分ばかりが、そんな遣る瀬無さが彼には見えているのだろうか。
「気分悪くなってきた」
赤の他人には、いや肉親であっても、こんな自分を見られたくはない。なんだか情けないのだ。
「届くモノに手を出すほうが賢い」
「別にそんなつもりは……」
ないと断言など。叶うならそこに、との思いは小さくして埋めてある。けれども埋めた自分は忘れられないでいる。それは事実だ。
「ゼロは何がしたいの?」
そうして自分を突く彼は何がしたいのか、ふと気になる。だから訊いた。けれども図書館に着いてしまう。
話を続けてもよかった。別に続かなくても良かった。本を戻すことに意識を向けてもゼロは何も言わない。
「終わったか?」
「あと一冊。あの高いとこ」
黙々と、そう多くない冊数を片付けて最後の一冊はよりも高い位置にある。ゼロに言えば特に異もなく片してくれる。
トン、と本が元の場所に収められたのを見届けると、不意に近い場所に隻眼のそれが覗き込んでいた。
「イヤそうな顔だ」
喉の奥でゼロが笑う。この男は自分にどんな情が向けられていても良しとする性格だ。捻くれている。おそらく今日は体を重ねることはない。言葉そのままに寝ている間、側にいれば良い。ゼロに言われても“イヤ”とは思っていない。自覚していなかっただけかもしれないが、どちらにせよ意外だ。
やんわりと手を握るゼロの手がいつもの彼とかけ離れていて、はマジマジと観察してしまう。
「今度は泣きそうな顔をシテるな」
「ウソばっか」
何が面白いのかはまったく分からない。それでも彼は面白いのだろう。
「強欲なあんたがスキなんだ」
「スキ、ねぇ……」
ふ、と笑ってしまったのは空言のように聞こえるからかもしれない。おかしくなってきて、声が出る。ゼロはそこに疑問を抱くことはない。きっと彼は自分の言葉がどう彼女の中にどう入っているのか、解っている。どう伝わろうと、しかし彼は構わないのだ。一方通行で構わないのだ。いや、一方通行が彼には都合がよいのだ。
ふと思いついたように、ゼロが人差し指の先を齧る。痛くはない。
「指輪もアンタには無意味そうだな」
歯を立てたところを舌が労るように撫でる。
「ゼロ。きもちわるい」
「知ってる」
ぱ、と掴まれた手が解放される。何となく物足りない気がするのは、きっと気のせいだ。
「利用できるものは利用シないとな?」
すごく分かりづらい、がこの男の誘い文句の一つだ。彼に一番に都合のいい言葉であると同時に、にも時々都合がよくなる。
やっぱり笑ってしまう。彼もまた。
「。そろそろイキそうだ」
「眠いくせにそういう言葉の使い方がブレないの何なの?」
「伝わるんだからイイだろ」
早く。とせがまれては苦く笑う。
「ああ、やきもちか」
気づけば腑に落ちる。くすぐったく思うのは、彼からの好意が嫌いではないからだ。互いにめんどくさい性格をしている。そう思うとこの共通点は好きに類されるのだ。
この男の情といったら、分かりにくいことこの上ないのだ。