に突然声をかけられたオーディンは年甲斐もなく気持ちが昂った。少なからずの好感情、と思いたい彼の気持ちは軍内ではやや広まりつつある。噂というのは風のごとき早さで広まるものだが、男女の比率を考えると、そして、そうした話に興味を抱くタイプの割合を更に考えると、幸運なことに小さな噂に分類されオーディンの耳に届く事はなかった。
はたから見ると駄々漏れの感情に、彼の古くからの知り合いがその場に居合わせていたなら吹き出していたに違いない。純粋な彼に気を遣って隠れて肩を震わせていたかもしれない。それほどに彼の挙動は分かりやすい。
「貴様の漆黒の掌は鮮血のみを望む」
「つまり?」
「はい。さんはまるで魔法が使えません。肉弾戦のみってとこですね」
少し人目を避けたように作られている東屋がある。城の中にはいくつか憩いの場が建てられており、彼らが居るのはそのうちの一つだ。そこはが気に入っている場所の一つでもあった。
「これから伸びるとか」
「絶望的です」
は掌を上にしてオーディンに差し出していた。手相占いのようだと思いながらも違う。彼に見てもらっているのは自身に魔法を使うための資質が存在するかどうかだ。魔法と無縁の世界からやってきた彼女はいまいち魔法への希望を捨てきれないでいる。以前いた世界でも“無理だ”と組織の中のシスターに是非もなしに断言されているのだが、こうして次元を飛び越えたのなら何かが変わっているのではないか――つまり、諦めが悪い。そして今この時、再び希望は砕かれたわけで、しかしあらかじめの結果に小さな溜息を漏らすにとどまった。
ふとオーディンの側にある魔導書に目がいった。あれには何が書かれているのか、そういえば自身の武器が剣であるから武器屋に足を運ぶことはあっても道具屋には滅多にないことを思い出す。中身を簡単に確かめるだけの立ち読みなら咎められることもないだろうに。
「読んでみますか?」
中身を知りたい、と顔に大書してあるのだろう。オーディンは大事な得物の一つだろうに事もなげにの前に魔導書を差し出す。一瞬驚いた顔をして見せるではあるが、すぐに喜色を滲ませるのだから彼がつられてしまうのも仕方がない。「では、」などとわざわざ声に出して中身を覗ける喜びを懸命に抑えている。そんな姿に可愛いと思ってしまったからか、ドクンと心音が際立ち、体熱が上がった気がした。目前ですでに興味を魔導書へ移している彼女の姿を見て、ふいと顔をそらす。片手では顔を覆うには足りない。けれどもそれでよいと思うのは視界から完全に彼女を消すことが出来ないでいるからだ。
横目で盗み見るように伺っていると唐突にが顔を上げた。顔の火照りは取れているだろうかと心配になる。要らぬ心配に終わるのだが。
「ねぇ、オーディン。魔導書って魔力がないと読めないの?」
「あれば読みやすいみたいです。詳しくは知らないです。俺、師匠がいるわけじゃないんで」
「なるほど、天性的な部分もあるのかー」
羨ましい。とぼやきながらもやはり少し悔しそうにするにとどまって、しかしそれもどこか楽しむような軽さだ。彼女がそれまで培ってきた剣士としての実力に相応の自信を抱いているからなのか。彼女が時折話してくれる本来の世界での出来事が、自分の知る世界とはまるでかけ離れているものだからオーディンには想像のしようがなかった。もっと、もっと、言葉を交わす機会があれば叶ったことなのかもしれない。だが、それは今は難しい。新たな敵が出現した。街の復興もある。侵略者に対する防衛もある。明らかに自分たちが召喚された頃よりもこの世界の情勢は複雑化している。収束に向かうのは何時なのか、まるで検討もつかない状況だ。
「そういえば!私の知り合いに自分の力を一時的に相手に付加した人がいるんだけど」
魔力が注がれることで、才能が開花しないだろうか?と彼女は言う。やはり諦めが悪い。
「俺の魔力をさんに、ですか?」
あくまで自分の魔法は独自のスタイルであるし、高度な研究者ではないのだ。彼女は簡単に提案するが、その力を与えた者はそうした資質に優れていたに違いない。攻撃ならいざ知らず、力を与えるなど――とても楽しそうだ。
「オーディン。顔」
「いやいやいや!そんなおもし、じゃなくて!!俺の専門外ですよ!?体に負荷がかからないとも言い切れないわけで!!」
「そういうもんなの?」
「シスターとかプリースト、神に仕える職業なら可能かもしれませんけど」
指折り、思いつく仲間たちの名を上げるオーディンをはじっと見据える。
「言っときますが、俺の前の職業は剣士ですし、プリーストは友人がやっていたので……聞いてます?」
「はぁー残念。漆黒のオーディンの偉大な魔力なら私の中のゼロに近い枯渇スレスレ状態の魔力が溢れだす奇跡を起こすかもしれないのに!!」
そしてだいぶ仰々しい所作でもってして、顔を覆った。もちろん泣いてはいない。指の隙間からちらりと彼を覗うほどの強かさが確かにあって、うずうずとしているオーディンが居る。彼女は彼の扱いを心得ている。成功であっても失敗であっても彼女は構わなかったし、そう酷いことにはならないだろうと思うのは、オーディンを認めているからだ。剣士の経験もあり、魔法にも長けているというのだから有能だ。「ロマンを求めて」と何時かの会話で教えてもらったことがあったが、だとするなら相当の熱情が彼にはあるし、努力の結果も申し分ない。彼の上司は彼をよく褒めていた。
「暗夜随一の呪術師……だっけ?」
「俺の溢れだす才能はもはやこの軍内でも!!?」
感情が高ぶりすぎて記憶があやふやになっているのか、自身が話したことを忘れている。
「し、仕方がない。この漆黒のオーディンが貴様の能力の礎を築いてやろう」
「お願いします」
望んだとおりに事が運んだ瞬間、は顔を覆っていた手をパッと放し両手を差し出した。
「さん。体に嫌な感じがあったら即座に絶対、何が何でも、俺の演技に付き合わずに言ってください」
「りょーかい」
なにせ自己満足なだけの実験ではない。向いていないと言われた呪術とは違い、今から行う【儀式】に負の感情は不要だ。感情が効果を左右するならこの件については持ち合わせているはずだ。
「漆黒のオーディンの名の下に新たな力を授けてやろう」
オーディンは何時もの小難しい表現を控えた、というよりはあまりにも急で思い浮かばない。差し出された手を取り、集中するために目を閉じるといかに彼女の手が小さく女性特有であると分かる。分散しそうになる意識をかき集め、魔法を使う時のように自身の掌へ魔力を集中させた。イメージが豊かであればあるほど魔法は使いやすい。水に例えながら、増大過ぎず、粗過ぎず、ゆっくりと彼女に流し込む。喉が渇いた者へ水を与えるそんなイメージを彼は浮かべながらオーディンは彼女へ魔力を注いでいる、つもりだ。本当に注げているかはやはり初めてのことで、彼には感覚が分かりかねるし、もわからない。判るのは握られた手が暖かいということくらいだろうか。
「どんな感じですか?」
「暖かいよ」
日が陰りはじめ、肌寒さすら感じるからか余計に手から伝わる温もりが心地良い。それは相手も同じだったのか、それとも答え方に問題があったのか、やや力が加えられた。うっすらとオーディンの手は光っている。魔法の使い手ならではの特殊な光景で、時に禍々しさを放つそれは今は柔らかい。使い手の心情を表しているのは魔力のないですら分かった。
その光は確かにオーディンの手から自身の方へ向かってくるのだ。それでも触れた部分を中心とした数㎝程を伝わるだけで空中に四散してしまう。取り込む、流し込む、と安易に表現はしてみたが、現実はそう簡単ではないらしかった。ここが魔法を使える世界だとしても。
「オーディン。ありがとう」
「……」
「オーディン?」
刹那、大きな大きな溜息。
漏らしたのはオーディンで、の手を握りしめたままの姿勢を崩さず、情けなさを感じたのか俯いてのものだった。シスターである母を持つ自分ならあるいは、と知らないうちに期待していたようで自身でも驚くほどに落胆してしまっている。共有できるであろう数少ない感情を満たす手助けにもなれていない。
顔を上げればきっと情けない顔をしているに違いない。けれども、いつまでも俯いていても仕方がないのも事実で、彼女にかける言葉を見つけられないままオーディンは顔を上げる。は笑っていた。
「良い人すぎるって言われたことない?相手にのめりこみすぎ」
「白夜の人間に少しなら……あります」
「前にも言ったと思うけど、私の世界には魔法が存在しないの。魔法を使う仕組みが体に無いと考えて当然じゃない?」
使えたらいいけど。と付け加えては続ける。
「泣きそうな顔しないで」とはすこし大袈裟だったかもしれないが、何時もの覇気が消え失せているのだからそう感じてしまうのも無理はなかった。
「毎日、は今の状況を考えると無理ですけど、時々やってみませんか?」
オーディンはそう提案すれば、彼女の気遣う言葉を他ならぬ彼が遮る。彼の熱は勢いを急激に取り戻しているが、はたとの黒とも茶ともとれる目と合ってしまうと急停止した。頭の中には感情で構成されたような言葉が連なっているのに、口からは出てこない。独り善がりになっていないだろうか。突っ走ってしまえば簡単だった。唐突に冷静を取り戻す自分を彼はひどく恨んだ。押し切るべきか、無しだと撤回するべきか。彼女の心の機微を知ろうとして……知ろうとしていたはずだった。
「やりましょう。さん」
口を突いて出ていた。それは自身の望みだ。彼女と繋がる理由が欲しい。等しく結ばれなくても良い。彼女が笑ってくれる切っ掛けを自分が作れたら良い。そんな望みだった。自分のいた世界はもうこの世には存在しなくて、それでも違った未来の両親たちに愛情をもらえて、そこに繋ぐためにまた次元を飛んで死地をくぐり、なぜだか此処に居る。それもまた自身の心の糧となる人を見付けるためのものなら――。
背景はどうであれ、次元を渡り歩く彼女の心境は理解できた。彼女と自分との違いを挙げるならそれは自分には仲間が居たことだ。命を懸ける世界で一人きりなど――。
独り善がりでもよかった。
「さん」
自分が彼女の手を唯一温められるのであれば、一等大事な言葉を口にすることなど出来なくとも――。