ロイドはその日、大した理由など持たずに城の敷地内に建つ図書館へ足を運んだ。彼に読書の習慣があったわけではない。自分から進んで本を読むことはあまりなく、多くは友人が押し付けてきたものを暇潰しに目を通す程度であった。彼の習慣といえばもっぱら戦いに関することへのトレーニングなのだが、それも終えてしまっている。珍しく、声を掛けられることもなく気ままな散策の先で見付けた建物が図書館だったというだけの話だ。
木製のしかし扉には細かな彫り細工が施されたそれは少々重い。軋む音をそこら中へ響かせるほど建物の天井は高く、おそらく建物の奥に居たとしても入館者の存在が分かってしまうだろう。
大きな音に身構えてしまうのは、暗殺を生業としていたからか。自然と表情が歪むが、視界に人影がないこと、察知できる気配がないことが緊張を和らげる。そして人がいないという判断が何故か彼を安堵させた。初めて足を踏み入れる場所だが、本を読むための場所に何を警戒する必要があるのかと自嘲しながら足を踏み入れる。光を取り入れる大きな窓のせいで、外の秋めいた肌寒さを忘れる、明るさと温かさが中には満ちていた。
悪くない場所だ、と端から見て回ろうかと歩みだす。定期的な掃除が為されているようでそれほど埃っぽさを感じない。ほぼ散歩の延長だからか背表紙の字も、そもそも本を手に取ることすらしないロイドは、図書館の最奥であろう場所にたどり着いて、そして同時に自然と足を止めた。止めざるを得なかった。
「何してるんだ」
その声は対象者あってのもので、しかし問うには小さいものだった。
確かにそこはメインの場所から外れた場所で人通りが極端に少ないであろう。穴場であったのかもしれない。ロイドはとりあえず、そこに行きつくまでの間、誰かに会うことはなかった。普段の使用状況を知らないため、これが常であるのか、偶々であったのかは知りようがないのだが。
風邪をひく、と呑気に用意されている読書用の机で居眠りをする恋人を起こそうかと思ったが、中々心地よい場所であるのは確かだ。うまい具合に直射日光を避けているせいだろう。
ふと、起こすのを止めて彼女の目前の椅子に腰かけた。音を立てないように、といっても熟睡しているのか身動ぎ一つしない。
こうした陽のある時間に二人きり――彼女の意識がないのはおくとして――久しいことだったように思う。もともと、この世界の争乱を収束させるために喚ばれた身であり、日中は戦いに身を投じている。確かに英雄の人数は増えた。けれども次から次へと敵は現れ、戦うだけでは済まなくなっている。復興の要員としても駆り出されることがあり、夜の短くも共に居られる時間は貴重だ。それもやはり英雄の数が増えれば部屋割は異なっていき、“二人きり”は中々叶わないのだが。
自分で思う以上に、どうやら彼女との時間を欲しているらしいことに気付いてロイドは息をつく。喚ばれた以上は相応の働きをするつもりであるし、雑に仕事を請け負うつもりは毛頭ない。何より、正義のためであるならとさえ思っているし、思えるのだが――驚くほどに彼女のことが気になって仕方がないらしい。
そうだ。そういえば最近、彼女はエクラの仕事を手伝っていて、彼の執務室に朝から晩まで居ることが週の何日かある。心配にならないのかピンクの髪を二つに結んでいる喧しいシスターがしつこく聞いてきたことを思い出した。に対してはそうした移り気を心配することは無用で、そもそもするなら彼女の本来の待ち人に対してだ、と嫌になるくらいに分かっている。エクラには微塵もそんな心配を抱いてはいない。少し皮肉屋だが、それも皮肉屋になりきれない不器用なお人よし、というのがロイドから見た彼の印象だ。だから何の心配もしていないのだ――。
「んー……」
が身じろいだ。机にうつぶせの体勢に疲れたのか、猫のように伸びてゆっくりと体を起こす。定まらない焦点を何度か瞬きで合わせているようで、漸く目の前に彼が、ロイドが座っていることを理解して目玉が零れるような心底驚いた表情をして見せる。わざとらしいとは思わないが、型にはまったようなそれに思わず笑ってしまった。他意などないのにが恥じてしまうのは仕方がないことだった。
「どうした?」
「いや、何でいるのかなって…思うでしょ、普通に」
「気持ち良さそうだったからな」
「起こしてくれていいのに」
彼女の言葉はもっともではあった。
「いや、色々と考えていたんだ」
周りに煩わされない環境を得るのはこんなにも難しかったかとさえ思う。
「例えば、お前が他の男に心変わりしたら、とかな」
それはロイドのほんのお遊びだった。何も心配はしていない。ただ、彼女がどう思っているのかは知りようがない。起きたばかりの寝ぼけた頭は本音を引き出すのにいいかもしれない、と、別に聞けなくてもいいのだ。知れたら万々歳といったところか。
「不安?」
「分からん。が、煽られる」
「セーラ?」
「シンパイショウだと思うぞ、あのシスターは」
お前のことが心配なんだろうな、とあながち外れてはいないであろうそれを言葉にしての言葉を待つ。
じ、と見てくる彼女は言葉を探しているのだろうか。何となく視線を外すことを憚られている。大した意味など持たせるつもりはなかったというのに、失敗してしまったかもしれない。
「ロイドさんにぞっこんなのに」
どちらの?と訊くのは野暮か。それを訊くのはあまりに残酷で、そうしたもの含めての上での付き合いと分かっているのに。
バカなことを聞いたもんだと自分で分かっているのと同時に、何故そんなことをしたのかやはり分からない。知りたいのは知りたいことに変わりはないのだが、彼女の表情を曇らせてまで聞きたいことではなかったはず、なのだ。
溜息が漏れる。自身の不甲斐なさに。彼女の言葉をそのまま捉えてしまえば楽だというのに、皮肉な部分の自分がそうさせてはくれないでいる。明らかに自身の心の問題だ。
「疲れてる?肩でも揉む?膝を貸そうか?」
気に入った人間に甘いのは、大なり小なり誰にでも当てはまる分かりやすい好意の表れではあるのだろうが、彼女は特別甘い気もする。相変わらず、皮肉な部分が邪魔をしてくるのだが――。
何も言わないでいれば心配そうに近づいてくるのだから、無防備だ。意図せず伸ばしていた手が彼女の手を掴まえている。無意識であったことに驚きつつも、それは本心なのだろう。抗われないことに心は穏やかなものだ。そのまま引き寄せて抱きすくめても変わらない。腕の中に彼女の存在があるだけで満足している。何か言葉にした方がよかった気もするのだが、探すのが面倒で、そんなことよりも自分を優先していたい。
そんな勝手な部分を見せているのにやはり彼女は甘い。むず痒い。知らない感覚ではないのだが――懐かしさすら覚えるそれも悪くない。弟や妹には見せられない姿とは思うが、気恥ずかしさを感じないのは喜びが大きいのだろう。
「人がいないとはいえ恥ずかしいんですけど?」
「我慢してくれ」
掻き抱くに止めている自分も大変だ、と茶目っ気を交えての言葉に吹き出すように笑うが可愛くて仕方がなかった。