「ウソ……」
思わず口を衝いて出るほど、にとっては予想外の出来事だった。そのまま気付かないフリも出来たのに、物語の筋書きのように、ぴたりと符合してしまった。踵を返すよりも早く、そこらを歩く店員に控えめでいながら、はっきりと知り合いだと示すように名を呼ぶ。
「。こっちだ」
聞こえないふりは通じない。客は逃さないと言わんばかりにやる気に満ちた店員が、にこやかに「いらっしゃいませー。待ち合わせですかー?」と逃げ道をふさいでくる。ニコニコと笑顔を向ける店員の圧が強い。片手をあげて合図する相手を視界の端で捉えながら、店員に押し切られるように席に着いた。
「さて、どこ情報ですか? ロイドさん?」
「偶然だろ?」
は自分が外食する予定など、誰かに話した覚えはない。
そもそも特務機関の人間は良くも悪くも一癖ある人間が多い。そんな中では、紛れもなく平凡な部類だ。ふらりと町中の大衆食堂に立ち寄ったところで、誰が気に留めるというのか。もちろん、たまたま居合わせることもあるだろう。ゼロではない。
だが、これは本当に偶然なのだろうか。この食堂で顔を合わせるのは、実のところ初めてではない。
「おねえさん。ご注文どうされます?」
「えーと……」
は視線を巡らせて、壁に貼られたメニューを見やる。
ああ、彼とよくここで遭遇してしまうのは当たり前なのだ。
「彼と同じもので」
この場所は、どこか牙のアジトを思い出させる。造りも、雰囲気も、元気のいい主人と給仕の存在も。交わらずとも、本質が同じならば、彼と同じ場所を好んでもおかしくはない。
――必然的な偶然。
「あぁ、彼女に酒も」
「わぁ! 奢ってくれるの?」
「現金な奴だな。一杯だけだ。あとは自腹にしてくれ」
本質が同じなら、彼と合わないわけがない。
こうして過ごすひと時は、小さな息抜きになる。もしもを思い描き、仮初の癒しを得る。
苦しさと心地良さがせめぎ合いながらも、重なる共通点が生み出す親しさは、距離の境界を滲ませた。
が特別お酒に弱いわけではない。
背負われるほどの醜態を晒すことはなかったが、食事を終えた二人は酒の酔に任せた温い歩みで街を歩く。自分たちの寝床を目指すでもなく酔いを覚ますように。あるいは心地よさを堪能するように。
散歩という体で、何となくある離れがたさを探り合う。
ほろ酔いではあったが、はほんの少し足元を狂わせた。転ぶほどではない。だが想定の歩幅を外れ、隣を歩くロイドに軽くぶつかった。
「そんなに強い酒じゃなかっただろ?」
「別にシラフでも躓くときは躓くんだよ」
いつもと違う笑い方に、たしかに酒に飲まれているなとロイドは悟って、自身の手をポケットへねじ込む。
「支えが必要なら――」
言うや、彼女はあからさまに距離を取った。
「だめだめ。ライナスが怒る。兄貴に色目を使うなっ、てね」
ロイドははたと止まり、彼女の言葉を繰り返す。“色目”――そんなものを向けられた覚えはない。変なことを言うなと、帰ったら弟へ釘を刺さなければならない。やることが増えて、億劫だとすら思う。
「わたしは至って真面目に、健全に交友関係を広げてるつもりなんだけどなぁ。ライナスにはそう見えないみたいね」
あーおかしい。
求めた対応と違っても彼女は小さく笑い飛ばして良しとする。齟齬を楽しんでいるかのように。
「まあライナスがロイドさんのこと好きなのは分かりきってるんだけど。そもそも色目って常に使うもんじゃないんだけどね」
「ん?」
「だってライナス。おんなじ事しか言わないから。わたしが常にそうしてるように見えてるんでしょ?」
「弟が、すまん」
「ぜんぜん。お兄ちゃんに変な虫が付いたらイヤなのは解る」
弟の非礼をが気にかけることはない。なぜか好んでいるようにも思える。彼女の思う通りであることが、何かを充足させて、あるいは懐かしさを覚えさせている。
「戻ったら言っておく」
「別にいいのに。そういうところは本当にロイドさんらしいというか、なんというか」
軽く、だが確かにロイドは言う。弟の後始末はいつも自分がしているような口ぶりで、仕方がないなという風に。そう思っていても放っておけない彼の気質はどこか懐かしさを運んで、やはりの口元を緩ませる。
そんな真面目さが、少し可笑しくて、少し嬉しい。
「そもそもライナスは色目の使いどころがわかってないよね」
本人を前にすれば、さぞ怒鳴り返してきたことだろう。ちょっとした擁護のつもりで口をついて出た言葉は、酒のせいもあってか存外に素直すぎたかもしれない。
ロイドはの軽い笑い声を聞きつつも黙ったまま、視線を落とし、考え込むような素振りを見せる。急に訪れた沈黙に、楽しい気持ちの底で不安が揺れる。
喉がひりつくような間があり、不意に彼は顔を向けた。
「……じゃあ俺は、間違ってないな」
「……?」
問い返すより早く、影が覆いかぶさってくる。
「――っ!」
息を呑み、思わず身を引いた。酔いが一気に醒めるほどの距離の近さに、目を見開いてロイドを見返す。耳も顔も、すべてが瞬時に熱を帯びるのが分かり、様々な羞恥が混ざって、は口元を覆う。
身を引いた彼女を見て、ロイドはそれ以上は追わなかった。だが彼は、喉の奥で押し殺すように笑う。
「色目を使うってのは、こういうことだろ」
「……ひ、飛躍しすぎ、でしょ、それ……!」
顔を隠して、つかえ気味に口を開くの言葉は心許ない。否定の言葉がかすれるのを確かめて、ロイドはもう一歩踏み込む。
「使いどころの話じゃなかったか?」
「ちょ、そんな……」
どこにキスをする理由があったのか、の頭の中はぐるぐると回り始める。
面倒見の良さに甘えすぎてしまったのか、それともライナスへの仏心が仇となったのか。
困惑する心とは裏腹に、ロイドの太い腕は彼女の腰を事もなげに引き寄せる。
強引な距離の詰め方に、なぜか懐かしさではなく鋭い危機感が胸を刺した。
抱き寄せられたタイミングで、は両手を胸の前で小さく上げる。指を揃えて、肩のあたりで構えるような仕草。自分の世界では「ストップ」や「降参」の意味でよく使われる、無意識のジェスチャーだった。
けれど、ロイドの世界には当然そんな文化的前提はない。彼はその動きを一瞬目で追って、眉をひそめた。
「……何だ、それ。呪文か?」
「えっと、その……止まってほしいときの、合図。うちの世界では、だけど」
説明しながら、なんだか余計に恥ずかしくなってくる。こういう“ノリ”はこの世界では通じないのだと、は毎度のように思い知らされる。
「と、とにかく落ち着こ!」
「俺は落ち着いているな」
「……ですよね」
ああ、これは完全に遊び始めてるな。と、は体の力が抜けるのを感じる。あいにくとそれが何に繋がるものなのか、“今の”彼からは見えてはこない。もう少し、“あの人”は分かりやすかった。
そんなことを思いながらやわく腕を突っぱねる。ビクともしない。
頭の上で微かな笑い声が聞こえた。
「もう……お遊びが過ぎるって」
軽くいなせれば問題はない。
「そうやって逃げるなよ」
でもそうはさせてくれない。
なぜ、今日なのか。
なぜ、今なのか。
「だって心臓に悪い」
「それは、悪かった」
低く落とした声は、不器用なくらいに真面目で。
それで終わるのかと思った、その瞬間だった。
ロイドの指先が、そっとの耳元に触れた。
イヤーカフを撫でる。
ただそれだけ。
言葉は落ちてこない。
沈黙が痛いほど響く。
は息を呑んで目を伏せた。
押し返そうとしても、力が入らない。
このままだと呑まれてしまう。
深く関わらず、顔見知り程度の気軽さで。
たまにご飯を共にし、軽い雑談を交わす――それくらいで良かったのに。
「?」
懐かしい声音が聞こえる。
思わず首を振る――理性の残骸が残っている。
「ごめん」
「なんだ。ビビってるのか?」
ロイドの言葉は的確で、容赦がない。
図星と言わんばかりにの体が震えた。
ふと彼が力を抜くのは彼女の緊張を和らげはしたが、彼の本心をごまかすつもりはない。
「本当にお前は分かりやすいな。全部出てるぞ」
仕方のない奴だ、と何でも分かっているような口振りに、は言い訳すら思い浮かばずにたじろぐ。
長く一緒に暮らしているわけでもないのに、この理解されている感じがとてもむず痒い。
「」
呼びかけに答えはない。
の視線は遠くを漂い、声は届いているはずなのに意識はまるで別の場所へと向かっている。
何を考えているのかは察しがつくのに、言葉にしてくれない。
「……」
声を落として、もう一度呼ぶ。
ロイドの声が届くと、彼女の黒い瞳がゆっくりと色を取り戻し、意識が今ここに戻ってくるのが分かった。
「すごく近い」
「酔っぱらいの距離なんてこんなもんだ」
「……そうだね」
そう返したきり黙り込んだの横で、ロイドは何も言わずにしばらく立ち尽くしていた。
静かな沈黙のあと。
ぽん、と。
軽く背中を叩かれた。
それは強くもなく、軽すぎもしない、絶妙な“促し”。
押し出すというより、ただ「行くか」と言いたげな、いつもの調子。
は顔を上げて、目を瞬かせる。
ロイドの視線はもう前を向いていた。
振り返らずに、ただ歩き出す。
ロイドの背中を慌てて追って、気づけば指先が彼の服の裾をつまんでいる。ヤバいと分かっているのに指は意に反して、彼の裾を離さない。
「はは、ひどい女だな」
歩みを緩めるロイドは穏やかにそう言った。