おや、と気づいた時には遅いこともしばしばあって、はいつも驚いている。
「な、なに?」
ずるりと現実に引き戻されると、時々頭が追いついていないことがある。例えば、今がそうだ。
食後に本を読むことがある。本の虫というほどではない。自分の世界に比べると娯楽は限られていて、手軽でいて一人でも可能なものが読書に過ぎない。そういえば、と恋人が部屋を訪ねてきたことを今思い出した。
「そんなに没頭してた?」
「いや。ただ俺は読書がそう得意じゃない」
壁に背を預けて座っていた。それはもうお行儀よく。それがいつのまに寝転んでいるのか。まぁそうさせたのはどう考えても彼しかいない。もう終わりだと当たり前のように持っていた本を奪われた。否定的な言葉が出てこないのは、彼がまぁご丁寧に栞をはさんでしまうからだ。憎めないことをする。
これみよがしに大きく伸びて、体を起こす。
別に彼に我慢を強いてまで読書に勤しむつもりはない。
「あ、ロイドさん。ストップ」
そのままにすれば始まるであろう事を中断、させるつもりはなく。ただ、思ったままを声にしたに過ぎない。彼もまた大して気に留めた様子はない。
手を伸ばせば、大概の人は本能的に身構えてしまうものだが、彼はそうしない。信頼の表れなのか、強者としての自信か、そのどちらもなのか。どちらにしろ、触れることに対して拒絶がないのは嬉しいものだ。
肩に添えた手を支えに、もう片側の親指の腹が頬骨の上をなぞる。
「まつげ、ついてた」
伝えると、ロイドはの手を掴む。そしてその先端に付着するものを吹き飛ばそうとする。きっとゴミとしか認識していない。
「わー! 待った待った。願いごとは?」
「……誰に聞いたんだ?」
そのまじないをロイドは知らないわけではない。子供の頃に、母親が生きていた頃に何回かやった記憶がある。彼女の【家族】が教えてやったのだろうか、それともどの世界にも似たようなまじないがあるのだろうか。
「私の国にもあったよ? やるの初めてだけど」
「が願っても良いぞ」
「ロイドさんのまつげでしょ」
きっとここで嫌だといえば、は即座に納得するだろう。異を唱えることもなく、「わかった」の一言で終わる。そこにあと腐れするものは存在しないとは分かっているが、幾分楽しそうに見えてしまうのだから程度はどうあれ期待はあるのだ。子どもじみたそのやり取りを自分にさせる期待が。
ロイドはそれに乗ってやろうとも思う一方で、自分でないかのような振る舞いに抵抗をおぼえていた。彼女の自室で行うのだから人目を気にする必要はない。が、自分の中の絶対的な何かが邪魔をしている。
「あはは。イヤそうな顔してる」
「からかうなよ」
「ごめんごめん。ロイドさんは神頼みしないもんね」
「壮大な願いごとがもう思いつかないんだ」
たとえばありがちに世界平和を願ったところで、自分なんかよりも敬虔な信者がそれを願っているはずだ。
たとえば強くなりたいと願ったところで、才能を授けられたとして、使い道の判断もそれを伸ばすも自分が得る努力をしなければならない。
たとえば牙を再建したいと願ったところで、指揮するのは――人間だ。神のお告げで動く集団などそれこそ危うい。
「そうだな……叶えられそうなのは、」
そう言ってロイドはの指先に張り付いていたまつげを吹き飛ばす。「あ、」とが声を出して、少しむくれる。
「願いごとは人に話さないほうがいいんだろ?」
「あっという間過ぎて、そういうことに興じるロイドさんを吟味できてない」
あーあ。さして傷ついてもない、形だけのそれにロイドは眉を釣り上げる。なんともありきたりで、わざとらしい反応だ。だから彼も同じように反応を返す。「それは悪かった」と微塵も含まない言葉は軽いからかの耳管をくすぐるように撫でた。首をすくめた彼女の顔が薄っすらと赤くなっているのが面白くて、ロイドはすっとぼけて「どうかしたか」とたずねる。
耳を押さえるが何かを言いかけてやめる。分かっているのだ。1枚も2枚も相手がうわ手なことを。
そうしたことも含めて、が自分に弱いことを知るロイドは自分でも驚くほど彼女を可愛がっている。そうした情を抱ける相手も長いこと不在だった。弟にはそういう変化が面白くないらしいが、弟に対する見栄よりも彼女に対する情のほうが大きいのだから仕方がない。
「あ、あれ??」
存分にじゃれ合っただろうところで、ロイドは動く。安心しきりの彼女を抱き寄せ、膝の上に乗せることは難しくはない。危機感知能力がずいぶん緩いらしい彼女を心配に思う反面、今はそうで良いと思っている。
「まさか……?」
「叶うのを待つより叶えに行くほうが性に合っているみたいだ」
「わぁ、お上手ですねぇ」
「褒めてるんだろ?」
叶うかも分からないそれを待ち続けて心が乱れるのは好きではない。自分が少し動けば叶うものなら尚のこと待てやしない。
「ほら」
「ほら……?」
「俺の願いが叶いかけてるところだ」
「人で遊ばないでよ」
逃げたそうにもぞと動く尻をつかむロイドは、これっぽっちも表情を崩さない。
なにか人が違うな、と思いながら存外悪ノリするタイプなのを、もなんとなく分かってきたところだ。優しい人ね、と言えば違うと否定されたこともある。自分と他人の評価が違うことなど珍しくもなければ、自分がそう思うのだからそれでいいと思っている。一方で、こういうところだな、とは苦く笑うのだ。
「しょうがないなぁ。私がその願いを仕上げてあげる」
それでもこみ上げるあたたかい情が、いろいろな納得できないことを有耶無耶にしてしまう。有耶無耶にしたものの代わりに在るものが願いだとするなら――手に入れないわけにはいかなかった。