「一つ、聞いてもいいか?」
は心底不思議そうな顔をして、そう声をかけてきた男性を見た。もう聞く気満々じゃないか、と思いながら薄く笑み、”どうぞ”と先を促すと、彼――ロイド・リーダスは彼女の隣へ腰かけた。
少し埃っぽさを感じるのは、先ほど漸くエンブラ王国との戦いに一区切りを付けられたからで、緊張から失われた水分の補給をしようか、というところで声を掛けられた。革袋に入った水に口を付けながら待つのは、声をかけてきたロイドが自分に何を聞きたいのか皆目見当が付かないからだが、待てども彼が口を開く様子はない。そう喉の乾いていないからすれば水を飲む行為は、もう終わりにしたいもので、そして完全な手持無沙汰の状況が非常に居心地悪い。
「の、飲む?」
間接キスになるけど、などと茶化して付け加えるとロイドは一瞬眉根を寄せていたが、特に何を言うでもなく水筒を受け取り喉を潤した。一つの行動は前進へのきっかけにはなったらしい。
「お前は俺を知っているのか?」
「ロイド・リーダス」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「まぁ、知ってるけど知らないかも」
「……」
ロイドは小さな溜息を吐く。そして何か適切な言い回しはないだろうか、と考え込むのだがはやはり小さく笑うしかなかった。
「私は、ロイドさんのことを知ってるんだけど、今、隣にいるロイドさんのことは全然知らないんだよ」
「お前は俺と同じ異界から来たんじゃないのか?」
「私もよく分からないんだけど、私の知るロイドさんは――死んでるからなぁ」
言わせないでよ
は小さな声で言って、ロイド以上の溜息を吐いた。
名前を口にすることについてはマシになったものの、“死んだ”という言葉はまだダメだ。目の前に自分の知る彼と似すぎているが故にフラッシュバックが濃く脳裏を過ぎる。生暖かい血に青白くなってしまった顔色、掠れた声、やりきれなさ、すべてが昨日のことのように思い出せてしまって、視界がうっすらと滲み始める。堪えるために掌に爪を立てるのだが、あまり効果はなく、すこしだけ溢れてしまったものを袖で拭った。
「……その、お前の知るロイドも召喚される可能性はないのか?」
「死人が動いたらゾンビっていうんだよ」
「だが俺も一度は死んだぞ」
「……マジ?」
「マジだ」
自分の末路を覚えていないわけではない。義妹にも随分と心配をかけた。泣き顔も覚えている。弟を失った悲しみもだ。それでも自分は今こうして再び剣を握り戦っている。傭兵のような立場であるがしかし、それは悪事への加担ではないことが力を貸す不動の理由だ。兎角、こうして生きている。なら、同じように死んだ弟にも、もしかしたら父にすら会えるのではないかと期待しても良いんじゃないかとロイドは思っていた。そしてそれは目の前にいるも抱いても良い期待ではないかと思うのだ。
心を動かされたのか、考え込んでしまった彼女が前を向く一つの理由になればいい。会ってまだそう過ごしていない彼女にそう親身な想いを抱くのは、おそらく彼女の思う者が”自分”だからだろう。違う、というのは分かっているが、涙すら浮かぶ程の好意を持っていた彼女に心を動かされるのは驚くほど容易い。
「やっぱりロイドさんだなー」
「どういう意味だ?」
は自身の両膝を抱き寄せ、その上に片頬を乗せ、ロイドを見ていた。彼女の傍らには彼女の武器である剣が置かれている。鞘にはくすんだ青い布がぐるぐると巻かれていた。見覚えがある。かつての自分の武器にもあった装飾品というにはあまりにもみすぼらしい……事実、ただの目印として付けただけのそれは、どうやら別の次元の自分もそうしたところは似ているのか、はたまた彼女と出会っていない部分だけが相違しているのか。
「ロイドさんは昔から……あ、5年くらいの付き合いなんだけどね、私を元気にするのが上手なの」
そよぐ風に髪をなびかせ、それを耳にかける彼女にまた気づく。彼女の耳にあるのはカフスだ。装飾品を身に着けているものは少なくない。類似品は山ほどある。彼女のそれも珍しいものではない。
ロイドは手を伸ばし、そのカフスへ触れる。直感的にそれが“ロイド”の物だと気づいたのは、褪せたそれが自分の物と酷似していたからなのか。
「近い。近い」
笑いながらやんわりとはロイドの手を取り、“そうだよ”とだけ答える。その答よりも何となく取られた手に違和感を覚えて、逆に掴み返す。そして空いた方の手で彼女の体をやや強引に引き寄せる。驚く顔にそのまま口づけた理由は全く分からない。手を握りしめ、体を固定し、唇を奪う。そんなことをするつもりは無かった。ただ口づけてしまうとタガが外れたように激しく奪った。後悔は後々しておくしかない、と自棄のような心境だ。一般的な男の欲は確かにあるが、こんな真似に出るほど落ちぶれてはいなかったはずだ。そんなことを空々しく自分への言い訳を並べてみても結果がすべてだ。結局はそういう男なのだろう。
くぐもる声をも飲み込む勢いで、行動に移したはいいもののどこまでしていいものかと考えあぐねていたその時、が応えた。
情けなくも動きを止めて固まっていると、掴まれているなりに手を握ろうとするのを感じて緊張がとけた、というよりは彼女の行動が不可解で一旦止めた。
「代わりぐらいするぞ」
あまりにも自分本位。
だが――
「やだなぁ。ロイドさんに好き好き言ってたけど、こういうことは無かったよ。抱擁はあるけど」
「マジか。その“ロイド”は腰抜けなのか?」
ふいに見えた自分だけのそれにいささか気分がよくなる。調子に乗る。勘違いを起こす。
「ほんと優しいなぁ、ロイドさん。私こそ“貴方”を見ないかもしれないのに」
見ているようで、ただ重ねているだけかもしれないのに。そうはぼやいて力を抜く。今ならまだ間に合うといわんとしているのは分かっていた。
「お前の“ロイド”とは違うんだ、俺は」
そして今更引くつもりもない。掴んでいた手を放し、両の手で体を支える――その先は何となくわかっていた。彼女の言うそれは本当かもしれない。そして自分の指摘された行動は同情からくるものかもしれない。否定するつもりは無い。訳のわからない自尊心がくすぐられたのもあるかもしれない。
「お前こそ“優しい俺”でなくても良いのか?」
あまりに不透明な始まりをきっかけにしている。不安があるのは最初のうちだけで、関係を成してしまえば杞憂で済ませられるものだと分かっている。気取られるのは格好悪い、と平静を装ってロイドはを見下ろした。まだ彼女のことをほとんど知らない。エンブラ王国と戦う際によく共に出陣しているだけで、挨拶も簡単な雑談も交わすものの交友を深めるような特別な何かもしていない。そんな相手だというのに、声をかけてしまったのは時折目が合うからだ。その理由も合点はいった。自分でも随分と無謀なことをしてしまったと思うのだが、どうしようもない。
彼女のことだ。逃げるなら当に逃げていただろう。
何かを言いたそうにしているのか、待っているのか。薄く開かれた唇に誘われるように己のものを重ね合わせる。ただ触れ合うだけのものにねだるように細い腕が体に回されると言いようのない充足感があった。