ふっ、と緊張がほぐれたのは、ロイドが自身の部屋に戻ってからのことだ。疲労らしい疲労など感じていなかったはずだが、どういうわけか体が重い。コートをフックに掛けることすら億劫に思って、安っぽい色も褪せているソファに腰を下ろす。昔と比べて随分とへたってしまっている。あまり丁寧に使ってはいないのだから、当たり前か。と、軋む音に構いもせずに背中を預けた。
少し眠ってしまったのかもしれない。不意に聞こえたノックの音に驚いて、初めて気付いた。ついでに返事もしていないのにドアは開いて、ひょこりと顔をのぞかせたのは弟ではなかった。弟ならノックなどしない。何度言ってもすっぽ抜けるのだ。
「どうした、」
弟の代わりにいたのはだ。大方任務を終えたというのに、食堂に顔を出さないのが理由だろう。ロイドも冷えた体を温めるのにそのつもりではあった。人の集まる酒場は、心身ともにあたたまる場所だ。バカ騒ぎをしないにしても、そうした雰囲気にあてられるのは嫌いではない。
「来ないから見にきた、けど……邪魔した?」
「いや。うたた寝を少ししていただけだ」
「珍しいね。ライナスはすんごい元気なんだけど」
「興奮冷めやらぬ、というやつだろ」
ロイドにも憶えがある。
彼も、そして弟のライナスも間違いなくブレンダン・リーダスの実子であった。組織が建ったのはロイドがまだ幼い頃の話である。幼心にも実父の姿は間違いなく英雄のそれにしか見えなかったし、また自分も同じ道を歩むのだという確信があった。そしてそれは現実にもなっているが、初めから【白狼】などという二つ名をつけられたわけではない。
【黒い牙】はもともとは庶民の小さな暴動のようなものに近かった。勢いだけで発起したにも関わらず、領主の私有する軍に勝てたのは運が良かったといえるだろう。利害関係による主従というのはもろい。私服を肥やすためだけの領主に雇われたのか、離反する者が多かったと聞いた。
それでも勢いだけでここまで組織が大きくなったわけでもない。幸運もそれなりにあったが、惹きつける魅力が多分にあった。夢物語のような思想を持つのは簡単だ。理想を抱くのは当たり前だ。ただそれを組織の一員となって叶えようとする者は多くない。誰だって命は惜しい。にも関わらず、組織には多種多様な人間が集まった。組織が大きくなるにつれ、認められる必要性も高まった――もともと父親は実子だからと甘やかす気などはなかったらしいのだが。どちらにせよ、任務を任せられるということは、その実力を示せという意味だ。二つ名を付けられるほどになれば、文句は出ない。
父親や、古参の手練たメンバーに認められるのは、憧れに近づけたような気がしたのだ。
「ロイドさんにそんな時期あった?覚えがないなぁ」
「お前が来る前は弟に聞かせてたさ。……カッコつけたかったんだろうな」
弟のその様を今見ていなくとも、手に取るようにわかる。からかうのも面白いだろう。が、今は――
「。いつまでそこに突っ立ってるんだ?」
小動物のように、廊下からこちらを伺ったままのを手招く。きっと彼女はその見えない後ろ手に、夜食の入ったかごを持っているに違いない。
「腹が減った」
そう言って促せば、はとても嬉しそうな顔をする。何ら特別なことはない。些細な日常の一幕なのだ。彼女の持ってくる夜食もそうだ。豪華でもなんでもない。ただ、任務に携わった者にだけほんの少し色がつく。
「食うか?」
血の気の多いこの組織で肉は貴重だ。ロイドとて例外なく肉はよく食べる。フォークに刺したそれをの顔の前でちらつかせる。こんなことに乗りはしないのだろうな、と思いながらついからかいたくなるのだ。
案の定、いやロイドの意図を察したのだろう。その本心を知ろうとしてか、髪色によく似た瞳を彼女はじぃと覗き込む。読心術が得意というわけではない。それでもこの程度――というよりはお遊びに過ぎないそれを隠すつもりなど、ロイドにはもとよりない。僅かに吊り上がっている口角が何よりも物語っている。
「すぐそういうことする……」
あきれた。と嘆息するは嘘を言ってはいないし、おそらく本心からそう思っている。背もたれに体を預け、腕を組む。だが、部屋を出ていくほど気分を害してはいないらしい。
ライナスが気持ちを昂ぶらせて酒場で騒ぐのと、大差はない。
腹が減っていないといえばそれは嘘だ。ただそれを上回る、ふとして湧いた下心があったに過ぎない。
フォークを置く音が響く。一人分空いている隣の空間が空々しいのだ、そもそも。
「――」
それは一種の命令か、まじないか。ひどく力を持っていた。ロイドはよく理解している。目だけで訴えるにとどめているのは、彼女は解っているからだ。解るほどにこの関係があたりまえになっていた。
重心の動きに合わせて、ソファが鳴る。ロイドの動きをが理解するよりも早くに、伸びた手はあっさりと彼女へ届いた。
あからさまだった距離がなくなり、捕まえた腕をぐいと引けば小さな体はたやすく自身の方へと向く。黒い瞳は動揺を隠さない。頭の位置が高いのが、少なからずの萎縮の原因にもなっているが構いやしない。小さな口がやはり小さく開く。それだけになってしまったのは、言わんとしていることを待たずに、ロイドが塞ぐからだ。
唐突に始まる口づけにビクリと体は震え、目も見開くをやはりロイドは気にしない。知っているのだ。そんな戸惑いはすぐに消えうせ――ぎこちなく応じ始めることを。
「ほらそういう……、聞いてる?」
「聞いてやらん」
「食事もせっかく持ってきたのに……」
「あとでな」
ロイドの無骨な手がの背中を支えながら、さもありなんといった具合に押し倒す。異を唱える言葉など知ったことではない。触りたい。持て余した熱を分け与えたい。それだけだ。
物足りない。そう見えた顔が答えだ。無意識であるとしても、煽ってきた彼女が悪いのだ。
「ん……」
小さな手に自身の手を絡める。抵抗はないだろうと踏んでも念のためだ。が、やはりあるのは握り返す所作なのだ。
「煽るのがうまいな、」
「そうさせてるのはロイドさんでしょ」
安堵がある。ひとりよがりのそれではない。は自分を喜ばせるのが上手いのだ。平静を装いながら「そうだ」と短く答えて、口づけて――どこまで彼女は分かっているのか。分かってほしくはない気もしている。
ぱ、と手を振りほどかれた。かと思うと、ぐ、と首に負荷がかかる。
「これもロイドさんのせい」
酒を飲んだわけでもないのに、潤んだように濡れた瞳が細められている。積極的に求めてこない彼女に求められるのは気分が良いものだ。
ワガママを聞く体なのか、そう仕向けたのか。彼女には重いであろう体を押し付け、息を詰めるその仕草にまで煽られる。奪うように、せがまれた通りに続けてしまえば、どちらが望んだものかすらあやふやになる。境界線がぼやけて、望むものが一致するこの瞬間に言いようのない充足感があるのだ――任務のそれとはまた違うものが。
服越しに伝え合う体温が、相手の存在が嬉しいなどとは女のような考えだと思う。そしてそうしたことに感慨をおぼえることは、今までなかったのだ。
離したくない。離せない。
誰かの喉が鳴る。少し苦しいような気もした。ただそれだけで、それだけのために止めるという考えへ到達しない。鼻から抜ける呼気が、大事にしてやろうという理性を奪う。
ロイドもまた、任務で得た熱量を静められてはいないのだ。
「ッ、……ぁ、ちょ……ロイドさ……っ」
これからだろう、というのにがロイドの行動を遮るものだから、彼の眉間にシワが寄った。続きを催促している。
「おかえり、くらい言わせてよ」
「……」
「おかえり。無事で良かった」
「お前に会いたくて頑張ったからな」
「またまた。関係なくやり切るくせに」
小さく笑うにつられてしまう。そのとおりだ。それを分かっているのが、たまらなく愛しく思わせるのかもしれない。我慢を強いている部分もあるはずなのだ。
「。俺が好きか?」
卑怯な問などとは解っている。
それでも、だ。
「カッコイイところ、好き」
悪びれもせずに考える余地を残す答えが、彼女の普通だ。そうであれば良いのか、そうでなければならないのか。聞けば答えはするのだろう。
それでも聞く気にならないのは、目を閉じ続きをと誘うと、自分の答えが一致しているからに他ならなかった。