「ラガルトお兄さんは用があるから子供は早く帰りなよ」
牙アジト内に作られた仲間内の酒場でなく、ベルンの酒場へ行こうと誘った張本人は宥めるように肩を叩きながら言った。理解不能だ、と誘われた――はといえば固まったのだが、そもそも明確な目的などない誘いだったのだろう。
街の酒場へ出かけたなら互いが相手を見つけるまでは一緒して、見つけたら仲間を放って自己欲のために行動開始。彼らが恋人同士であったなら展開は大きく変わるだろうが生憎と二人の関係を名づけるというなら“悪友”が適当だった。
「アジトまでの森の中で襲われたらラガルトの所為だからね」
「バカだね、お前さん。ここいらは牙の縄張りだ。そんな無粋なことをする奴には牙の御仕置きさ」
御仕置きで済むかは――来た人によるけどね。とラガルトは他人事だというように……実際には他人事なのだが、遠いことのようにして笑う。
悪友であったとしても友であるには変わりないのだから多少の心配をしてくれても良いじゃないか、とは無駄な願いで、実際されたなら気色悪さを感じて、ラガルトの言葉通りさっさと退散を決め込むに違いない。それでも人間は我侭なもので、無いなら無いで面白くないものだ。
牙の中の酒場が嫌、ということはなく。あそこはあそこで皆が知った顔であるし、色々と任務に出かけた先の面白い話が聞けて良いところだ。ラガルトに期待するだけ無駄なのを知っているから帰ろうか……そう思い始めた。
「愛する“アニキ”が居る所へ帰ったらどうだ?心配で、心配で堪んないだろうよ」
「どっちのことか分かんないわー」
「どっちでも間違っちゃないさ」
他人事だと思って、とごちってみた。
他人事だもん、と可愛く返された。
「じゃあラガルトが此処を奢るってことで」
それは最後の抵抗だったが、相手は一枚上手だ。だてに自分よりも年を食っていないということか・・快諾されて華麗にかわされると、何ともまぁ自分がバカらしく思えて仕方が無い。から此処は大人しくアジトへ戻ろう、と席を立つ。
ここは大人に、ここは大人に……。
バイバイと礼儀正しくお別れの挨拶をしたなら、“がアニキに潰されるほどに抱きしめられるところが見れなくて残念だ”と矢張り彼は他人事で憎まれ口を叩くから、ムッとしてしまうのは自然の摂理であって――そもそも酔っ払いの言葉を真に受ける自分も悪いのだが。
一つ大きく深呼吸をして気持ちを静めていると、目の前を店員が横切った――洗ったばかりのグラスと灰皿をトレーにのせている――考えるまでも無かった。灰皿の一つを手に取るや振り返りざまに投げれば鈍い音。
「残念。はずれた」
「……あちゃー、伸びてるぞ。どうすんだい、ちゃん?」
「退散しまーす」
悪友へのムカつきなど綺麗に払拭されてすり替わって表れたのは“やってしまった”、の申し訳なさ。大事にならないうちに退散を決め込む。
元々騒がしい酒場の中に響いた鈍い音に、野次馬達が何事、何事と事を知ろうとする。そうしている間が逃げることが出来る最後の余地でもあるから、何か言いたそうなラガルトへにっこりと作り物の笑顔を浮かべるやくるりと踵を返す。
「凄いな、」
アニキその1が何時の間にか居た。背中に届いたのはラガルトの大笑いで、アニキその1はそんな彼に対して不思議そうな顔をする。
「あいつ、頭でも打ったのか?」
「元々あーいう構造だと思う」
「……それもそうか」
肩を竦めながらは店から出た。
「で、何でロイドさんは私に付き合ってるのかな、と」
は深緑のしっとりと湿った若草を踏みしめながら、緩い坂を上る。その少し後ろから自分と比べれば大分余裕のある歩調が付いてくるのは、知り合いのものであったから警戒の必要はない。とはいえ“彼”は口数が多くは無いわけで、しかも酒場での出来事を見ているときたものだ。黙しているのは興味がないのか何なのか、彼女は分かりかねず半ば押し込むようにして知らないフリをする。楽しい道中という気分ではなかった。
「ノビていた奴が起きたら大乱闘が起こるだろうからな。面倒はごめんだろう?」
蒸し返されなければ良い、と思いながら切っ掛けを与えたのは他ならぬ自分であったからぐうの音も出ない。“ごめんなさい”と蚊の鳴くような――恥に塗れた声がロイドに届く。
自分が気絶させた男に対するのとはまるで違うその感情は惚れた弱み故の、自身の短所を見せてしまったこと故の気まずさであるのをは知っていた。
「。そんなに早く歩くと途中でバテるぞ」
体は逃げ出そうとしても、呼び止められれば正直に緩く歩む。微かな笑い声は風に乗らずとも聞こえた。それ以上に“待て”と頭に置かれた手の暖かさはひどく心地良くて歩みを止めるには充分な威力を持っている。抗おうとは無駄で――
「」
「……ん?」
「寄り道でもするか」
彼の甘い声は知らず脳に心地良く侵食する。先入観はない。身に染みていく現実ばかりを甘受するなら、疑念などなく、纏わり付くのは甘い蜜。ただただ彼との時間が嬉しい。
子供扱いだって、妹扱いだって、どちらでも良かった。そもそも何の懸念があるというのか。悲しい思いをしたというならきっとそれは先行した想い、いわゆる自爆でしかない。信じるも信じないも、選ぶ、選ばないも何時だって自分が決めても良いことだ。
ロイドからの誘いは唐突過ぎた。そればかりが原因ではなく、彼の行為がの行動を止めたのは事実だ。足は動かない。
何時も軽い気持ちで触れているが、それが僅かに憚られる。ロイドから手が伸びるのは珍しいことだ。頭が真っ白になる。繋いだ手が、感情が理性を覆う。
「……妹、かな?」
ツン、と引かれた感覚に釣られて足は一歩前へ――歩く、と解した頭は勝手に歩く命令を体へ発している。
何時もなら気にならない地を踏みしめる音が耳に衝く。このままで良いと望んでいる。それでも勝手に期待をする。悪い癖だと知っていても止められないから、手を引かれ、道を逸れ、ロイドの行きたがっている場所への道すがらに呟く。返答を期待しつつ、していない――よりは聞きたくないのが事実であったから不安が積み重なった。
案の定、返答は無い。草を踏みしめる音が一層大きくなった気がする。何がどう怖いのか分からず、握られた手に応を返せないでいれば、するりと離れそうな瞬間ににきつく握られる。
また一つ期待する。すかさず握り返して、大股に歩いて、腕を組むや体をくっつけた。
今までが壊れてしまうかもしれない。どちらをとるかは自分次第で、招いた結果も自己責任だ。自分で突き放すかもしれないそれに縋りついて、答えが耳に入らないように視界は足元ばかりを映す。もたれるように体重を掛けてもビクともしない。
曖昧すぎる言葉にもっと輪郭を浮かばせなければ駄目なのだろうかと思いながら、薄く開いた口からは言葉が出ない。臆病なのはその先が想像できないから、今にしがみついて選べないからだと知っていて。想像のそれは現実ではないから、現実の甘さが捨てきれない。積もっていく期待は背中を押してくる、冷静な自分は懸命に踏みとどまっている。
何もかもが欲しくて仕方がなかった。矛盾していたとしても。
「妹“みたい”だ、な」
「曖昧すぎ」
「お前に言われたくない」
苦い笑みの混じった、家族へ向けるそれは心地良い。彼の長男気質は実兄のそれと同等であった。だから口から出てくるのは売り言葉に買い言葉で――。
「ロイドさんは“兄みたい”だけど“兄じゃない”し、兄だと“思いたくない”けど?」
「お前の兄には敵わないのか?」
「兄にしたくない、が正解」
強気に憎まれ口宜しく言ってみたところで、胸中の不安は一層深くなっては同時に出た言葉への後悔を生んでいく。足が立ち止まったのは先を見る怖さではなく、釣られたからだったが、釣られれば体は硬直し心音は跳ね上がった。
「」
名を呼ばれ、顔を見、何時ものように笑って見せて顔の引き攣りを知る。きっと不細工なことになってるんだろうなぁ――割に冷静に考えているのは諦めの表れだったようにも思えた。
ロイドは視線を逸らさなかった。表情一つ崩さない。の作った笑みに流されてやろう、という優しさを今は持ち合わせていない彼は大きく息をつく。
「あ、傷付く」
「俺はこれでもお前の兄貴に散々“泥棒”呼ばわりされてるんだがな」
「私もライナスにされてる」
仲間だねぇ。何時ものやり取りが戻ると現金なもので、不安は一掃。というよりは見ないフリ、気付かないフリ。
「」
そうしたいのにロイドはそうさせてはくれない。言わされている気分……というよりは本音を聞きたいと彼は言って――そういえばと思い出した。
互いの境遇が少しばかり似ていた。あろうことか相手に言わせようというところまで似ているときたものだ。我慢がきくほうではないから根負けしてしまうのは何時もで、今この時ですらそれは有効となっている。
「お前の言葉をそのままお前に返してやる」
「嫌いって言ったらそれが私に返ってくるってこと?」
「そうなるな」
ロイドは何時も上手に立つ。簡単でいて難しい要求をさらりとした顔で突きつけて――きっと面白がっている。人の悪い笑みが物語っている。ただ彼は突き放さない選択肢を何時も与えて、喜ばせるのが巧いのも事実だ。
「ロイドさん――…」
言葉がそのまま返ってくるというならそれは単なる鸚鵡返しだ。なのに疑念を抱く余地が無いのは、突きつけられる現実があったからに違いない。
その強引さには少し驚いた。目を見開いたのは、挨拶程度のものしか含めなかったそれが幾分重さを増しているからだ。頬でもない、額でもない。触れるものが何か、与えられた現実が何か、知ったなら夢見心地の感覚に襲われて瞼が重くなる。
知らないものだった。
合ったそれが、そんな事だけで終わらずに動き出す。小さな音が立って、上唇が妙に熱い気がしたのは優しく食まれたからに違いない。
「……んっ、ぅ」
小さく声を漏らしたのは、唇を食みながらも柔く吸う音がやけに大きく聞こえて気恥ずかしさを増長させたからだ。何とかして誤魔化せないかと、きっと自分の声が聞こえたのなら急速に我を取り戻せるはずだという根拠の無いそれで――結果は散々だ。
リーダス家の長男は優しく面倒見も良いが、弟をいじり回していた所為か意地の悪い部分がある。少なからずもそれを身に受けてはいて、彼の性格を知らないということはないのだが――つまり有頂天だった。
解放の代わりに混乱を余儀なく与えられ、それでも助けとなるはそれを与えてる当人であったから外套越しに腕を掴む。応じて口を開けては悪戯っぽく口内を冒し始める生温いそれを迎え入れた。酒を飲んでいたから分がないのだと、負け惜しみであっても構わない。自分を納得させる口実でしかないそれを飲み込んで息を上げていく。
ひどく息苦しくあり、ひどく心地良く、体は麻痺を伝えた。
「そのまま返したが伝わったか?」
「……私より強烈だと思う、し、ずるい」
不覚だ。勝負事のように思ってしまうのは生来の負けん気の強さが思わせるのか。それでも余韻は心地良い。
しっかりとした腕が体を支えてくれるそれだけで、夢心地で。
「意外に感じた部分は俺からのものだ」
与えられたそれが、伝えられたそれが意外であったからはおかしそうに笑って頷く。
ねだって腕を伸ばした。抱き締めてくれと腕を伸ばした。
確かに返ってくる応に、耳元に掠るロイドの小さな笑い声といったらまるで夢のようだった。