「ということがあったんだけど、私が悪いの?」
ねえ、と答えを催促されるライナスは深く溜め息を吐いた。夕食を何時もより多く食べたのが悪かったのか、長く食堂に居座る自分を「見つけた」とに声をかけられてから、よくわからない話に付き合わされている。どうやら見知らぬ男に良からぬ事をされたらしい。割にあっけらかんとしているから、大したことはされていないのか。どちらにせよ、詰まらない話だ。
「犯人を捕まえたきゃエクラに聞けば一発だろ」
仲間だという確信があるなら、それは召喚された英雄の一人なのだ。そして召喚できるのは一人しかいない。
「エクラ君にも話すの?恥ずかしいじゃん」
「俺は良いのかよ」
「深刻に扱わないからいいかなと思って」
あぁ、こいつは単に話し相手を探しているだけか。と思い至るのに時間はそうかからない。
「そいつ見つけて話せば良いだろ」
「やだなー。ライナス君と親交深めたいのに」
大袈裟な所作にどう反応して良いのか分からず、ライナスは顔を歪ませる。そうした馬鹿正直な反応には特に気を悪くするでもない。彼女の言葉はふざけた物言いであっても、嘘はないことを最近になって分かってきたのもある。少し離れた場所に仲間達が座って談笑している。あそこへ彼女を連れていけば自分だけが彼女の“相談”とやらを聞かなくて済むのだが、きっと、まだ食べ過ぎた腹が重いから動けないのだ。
何やらベラベラと彼女は喋っていたが頭には入ってこない。話の中身に興味はないが、割と彼女の声は心地よいのだ――内緒だが。
「ライナス」
名を呼ばれて目線を寄越すだけの返事をする。その先を待つが何も言わない。促してみても、意味深に笑むだけで、詰まらない。察するのは得意ではない。
「見んな。笑うな」
そうは言うのだが、彼女にはまるで伝わらないうえに、見世物小屋の珍獣にすらなった気もする、がやはり悪くない気分なのだ。自分でも気持ちが悪くなるほどに、思考と感情が真反対を向いていた。
「だいたいお前――」
「見つけたぞ、」
「っ!」
を喜ばせる会話をしようと思ったわけではない。そんなものは思い付かない上、そもそも付き合いが短すぎて彼女のことなど何一つ知らないと言っても良い。それでも憎まれ口というやつは叩けるもので、考える必要もなく出るそれが唐突に遮られてライナスは不快さに顔を思い切りしかめた。意識を彼女から少し外せば見知らぬ男がいる。気配を察するのは仕事柄得意であったのだが、それを封じたこの男は自分の知る【疾風】のような仕事に通じているのだろう。男はといえば一瞥くれはするものの、ただそれだけだった。
くすんだ銀髪に褐色の肌色、隻眼という風貌は今しがたから聞いた“よろしくない奴”であるのは明らかだった。特徴のある風貌だが、古参でないこともあってライナスも覚えはない。仲間ともっと早くに和解していたなら、【疾風】から何か聞けたかもしれない――。
「まったくあんたときたら何処を探しても居ないじゃないか」
やっと見つけた、とはどこまで本気なのか。は明らかに拒絶を見せているが、男はお構いなしといった具合に触れている。直接的な部位には触れはしないのだが、それが却って不快感を増幅させている。の後ろから現れた男は腰をかがめて、彼女を抱きすくめる。形だけ見れば柔和な仕草であった。頬擦りもそうかもしれない、が、の拒否の表情が全てだ。
「なぁ。今日辺り濡れた夜を過ごすのも悪くないと思うぞ」
「だから名前!」
「オーディンに聞けば良いだろ?」
「あのね。仲良くなりたいなら他人を介さないでくれる?」
「なるほど。そんなに深く俺の事が知りたいのか」
「もうヤダ……」
心底うんざりとした声音と表情で脱力するに、男は満足そうに笑む。そして舌をのぞかせて――頬だか耳だかを舐めようとしたのだろう。そう予想がつくや、ライナスは無性に腹が立った。会話の妨害も、自分を無視する態度も全てが気に入らない。この場に留まる理由などありはしない。そう思うと、先程まで重かった体が軽くなり、名前を呼ばれて初めて自分が立ち上がっていることに気付いた。感情は驚くほど醒めていて、無のようなものが満ちている。それは爆発しないようにとの自制の一種だったかもしれない。溜息に不満を少し乗せでもすればマシになる――いや、それは無意識的なものでしかなかった。
「付き合ってらんねぇ」
それだけは事実だった。この男のについてはさることながら、付き合いのあるの事であっても、何を考えているのかわからない。そもそもはっきりとした拒絶を見せもせず、のらりくらりとかわしているだけに過ぎないそれが面白くない。
「ライナス!」
きっと彼女は求めていた。かもしれない。確証が持てないことに苛立ちを覚えるのは、彼女のことを知らないと自覚する羽目になるからなのか。優位に立っていたいと思うのはおかしいのか。
「お前さ、何がしてぇの?」
それは先程の遮られた言葉の続きだ。状況が変わっている今、揶揄の色はなくなってしまった。の顔色が物語っている。それを見て、しかしどう接してやれば良いのか、助け船を出してやれば良いのか分からない――逃げたと兄は言うだろう。その場を後にすることしか、それが最善だとしか、ライナスには思えない。
は何かを言っていた。明確に自分に助けを求めていた、かもしれない。彼女を知らないから、とは逃げだったかもしれない。面倒事に巻き込まれたくないのも事実だ。振り切るようにそこを後にしたにもかかわらず、暫くしての声が、名を呼ぶ声が聞こえると、また足を止めてしまった。
「ほら見ろ」
少しの距離がある。男はいない。そこに安堵して、体の中で引きつっていたものがほぐれる。声に緊張も乗らない。彼女の交友関係がどうなのか、どうしたものを築くつもりなのか、未だ解らないが今は自分を選んでいるそれは目に見える事実だろう。
「無防備過ぎっからあんなのに狙われるんだろ。ちゃんと逃げられるじゃねぇか」
いつか泣くぞ、と忠告すれば、多少の危機感は抱いていたのか、素直に頷くのだ。それ以上どうこう言うのは野暮だろう。義妹のように萎れた植物を思わせる落胆を顕にすることはないが、その顔に現れた笑みは形だけのものだ。だからなのか、泣かれるだろうかと不安になった。
ライナスは実兄と比べられる事が少なくない。そしてその評価は一様であることが多い。自覚しているものとの差異がそれほど無いため、それが比べられた結果の劣る評価だとしても彼は気にしはしない。それは“らしさ”という彼を形成する一部であり、よく馴染んだそれを手放すことなど今さら出来ない。良い意味なのか、悪い意味なのか分からないが、兄はそうした部分が好きだと言っていた。不出来な部分を認められるとそこまで悪いものではないと思えるのだから不思議だ。“粗暴な奴”というのがライナスも知る自身への評価だが、そこには続きがあって、“意外にも面倒見が良い”というのは彼の無自覚な長所であった。
「で、お前は何がしてぇんだ?」
腰に手を当てる。えらそうな態度かもしれないが、半ば癖だ。は異なる世界線であれ【ライナス】という男を知っているからか、その態度に違和感がないということは臆すことにもならないのだろう。至極普通にライナスの問いには答えあぐねていた。
「今はっきりしてるのはライナスと仲良くしたい。かな」
「言ったろ。代わりはごめんだ」
「自分の中では重ねてないつもりなんだけど、そこを突かれたら証明する手立てなんてないし……」
へらり、と笑うは両手を肩まであげて小さく一歩、下がる。それはきっとこのまま拒否をすれば、自分へ望むことを止めるということなのだろう。
「だからそれが無防備だっつってんだろ」
自分が問うて、自分が優位であったはずが、答えれば全ては自分が導き出したものになるように事を運ばれている。責任転嫁のようなそれに腹が立つ。
「じゃあライナスは私とどうなってくれる?」
しかしそうは言っても、既にが動いているのだから、次に動くべきはライナスなのだ。一方通行の関係など存在はしない。
当たり前のそのやり取りに気付かないわけではない。
「知らねぇよ。信じられねぇもんをどーするんだ」
言葉を選ぼうにも、余裕がない。頭の中に現れた実に正直な言葉がすぐさま口をついて出る。思わせぶることもなく、突き放したような答えだと言うのに、は知っていたように戸惑うこともなければ、同調すらしてくる。「じゃあ仕方がない」と言う。肩を落として。
あざといとまでは思わない。罪悪感も自身の勝手な先走る感情だろう。だからこそ始末に悪い。そもそもなんだって自分はこんなにも頑なに彼女に警戒しているのか――。
「ま、明日ね。おやすみ。ライナス」
ライナスの出した答えをは受けとる。邪魔者が入らなければもう少し時間を過ごせていただろうが、おしまいはおしまいだ。惜しさは感じていたのだろう。ライナスの横を通り抜ける彼女は、一瞬考えたがこれくらいは、と彼の背中を軽く叩いて挨拶する。離れず、僅かな時間ライナスの背に留まっていたそれは気のせいではない。それが更にライナスへ何かを思わせる契機になるとしても、には知り得ない。
どうしようもない距離があるわけではない、というのだけが救いだった。