「げっ」
ライナスの口から思わず漏れたそのあまりよろしくない声は、幾分違わず彼の本音であった。しかし後戻りをするという選択肢は彼にはない。気付かれないように、その場を後にすることが出来たというのに、わざわざ声をかける。彼の性分だ。
「」
先客の彼女が食堂に居ないのは分かっていたが、この特務機関は抱える英雄数を鑑みても、規模は狭くはない。真面目な娯楽施設も備えられていれば、休憩所も何ヵ所かあって、訓練する施設も一つではない。なのに、なぜ出会ったのか。運としかいえないのだが、少しばかり彼女と接する機会が多いのではないかと思っている。彼女を探しているわけでも、そもそも探す理由もライナスにはなかった。
名前を呼ばれたはといえば、すぐに動きを中断することはない。一瞥して、やりかけの動作を終えて、「なに?」と返した。息が少し弾んでいるからか、少し素っ気なく感じる。
眉間に寄る皺は疲労のせいなのか、息を整えるはあまりライナスを見ない。気にはしているようだが、用がないならまたすぐにでも彼女は訓練を再開したそうな雰囲気なのだ。
探していたわけではない。偶々なこれに彼女に話しかける意図はない。挨拶で終われば済む話ではあるのだ。なのにそこに留まってしまった。訓練施設の壁に体を預けて、腕を組む。そういえば兄は彼女と手合わせをしたがっていたが――。
「おい。一人なら俺の相手しろよ」
「手加減してくれるなら」
「敵はしてくれねぇぞ。甘えたこと言ってんな」
兄からの申し出はのらりくらりとかわしているくせに、あっさりとした承諾にライナスは呆気にとられる。自分の彼女へ対する態度を思えば断られても仕方がない。のだが、は息を整えながら「どうぞ」と場を空ける、相対する場所を。
「言っとくけど弱いからね」
「ま、軽く、な?」
得物、といってもこれから使用するのは模擬だ。そしてライナスの得物は斧だったが、ここではと同じ剣を選ぶ。元々どちらも扱えていた。久しぶりの感触だ。少しわくわくしていた。彼女との手合わせに期待などしていない。誰が相手であっても、自分はそういう人間なのだ。
先攻か、後攻か、どちらが楽しめるかを考えているとが動く。宣言通り、可もなく不可もない平凡な速さで、ライナスに焦りをもたらすものは何もない。難なく受け止めて、想定通りの軽さに納得すらした。
「あ、傷付く」
「もっと筋力付けろよ」
「筋トレはそこそこしてるつもりなんだけど、ね!」
ライナスからの振り下ろしを薙ぎ払ったは1歩下がる。そして相手を倒すでもない打ち合い――それも会話ができるほどに軽い。弾むほどでないにしろ、酒もなく話が続いたのは初めてのことだった。
聞かれれば答える。そこに嫌みもからかいも無い。話しやすさすら感じて、ライナスは思い付くままに話を振る。少し楽しいと思いながら。
「あ!」
がライナスの打ちに対して受け止めきれず、自身の得物を落とす。見れば彼女の肩は上下に揺れていた。スタミナが切れたのか、両手を小さくあげて「降参」と宣言する。それに応じてライナスが構えを解けば、彼女はその場に座り込んだ。
「悪ぃ。調子に乗りすぎた」
「大丈夫。楽しかった――」
荒い呼吸の合間に彼女は言う。女を相手に、それも相手がへばるまで打ち合いなんてものはしたことがなかったライナスは、今の状況に少し困惑していた。
「ほら」
手を差し出したのは、何時かの兄との訓練でのことを思い出したからだ。まだ体力に歴然の差があったから、だいぶ昔のことになるだろう。
手首をつかみ合い、ぐいと、彼からすれば余分とはほど遠い加減で彼女の体は難なく持ち上がる。それは大部分の女性には当てはまるのだが、あいにくと女が側にいる生活とは無縁であるから、当たり前が新鮮なものになる。義妹であるニノが唯一の近しい女ではあったが、幼い彼女を甘やかしていたし、組織の色に染まるべきではないという思いがあった。だからやはり、ライナスにとって気軽に触れることのできる女はなのだ――今は。
「私はもう体力使いきっちゃったから終わるけど?」
どうする、と、問われて即答ができない。物足りなさは確かにある。このあとも施設を使う者はきっといて、積極的に使いたがる者は体を動かすことが好きな者が多いはずだ。それを待つのがライナスの常なのだが。
「ライナス。手が」
「なぁ」
痛い。を遮る。
「お前、兄貴が好きだろ?」
「好きだよ」
確かめるまでもないそれを確かめてしまったのはなんだったのか。聞いて何になったというのか。ぐ、と力がこもる。だがそれは単なる劣等感なのだろう。すぐさま滑稽さに気付いて離れようとした。すきにしろ、と。
「待った。待って」
「あん?」
引き止められるほど、自分は何か相手の気を引くような態度であったか。表情であったか。相手に察せられるようではまだまだだ、とライナスは自分がそうして相手を引き止めたように、力を入れてきたを見下ろす。まだ息の整いきらない彼女は懸命に呼吸を押さえている。焦らずともそれを待ってやることくらいは出来るのに、彼女は急いているようにも見えた。そう思えるのは体を起こすのに差し出してやった手を、彼女がいつの間にか両手で掴んでいるからだ。振り払われた過去でもあるのか、思わず勘繰ってしまった。
「俺は兄貴の代わりにはならねぇぞ」
皮肉のひとつも言えば、彼女は離れるだろうか。子供じみた挑戦がつい口をつく。それに豆鉄砲を食らったハトのような顔をするのだ。意外だ、と表すそれがいかに自分が的外れであるかを思い知らせてくる。そして自覚した。思った以上に彼女を、を受け入れていることに。
ライナスが彼自身の気持ちに驚きを隠せないでいると、自身も彼が何に驚いているのか分からない。腕の中の彼の腕が太くなった気がする。力がこもったのだ。振り払うのだろうか。振り払われるよりは自分から、と惜しみを隠して離す。
「ライナスを代わりにはしないって」
「兄貴にも言えるか?」
「私のこと知らない時点で全然別人なんだけど?」
事も無げに言う。だが彼女がいくらそう思っても、そう接しているつもりでも、関わる当事者としては疑いたくなる。
「私の知ってるライナスのほうが、全然良い奴だから安心しなって」
「そりゃどーいう意味だ」
「忘れるつもりはないから、としか」
彼女は強くそう主張した。そしてバカ正直に付け加えるのだ。
「間違えるとしたらお酒を飲み過ぎたとか……正常な思考じゃないときだよ」
「間違えるんじゃねぇか」
まるで信憑性の無い言葉に思わず笑った。それが彼女の思いやりであったかは分からない。
軽く見られるなど真っ平ごめんだ――誰であっても。
そう思った時、すとんと驚くほど腑に落ちてしまった。
へらりと笑うの息はもう乱れていない。何時もの彼女に戻ったに過ぎないのだが、どこか違う。それが形なくもやもやと燻り始めるから始末が悪い。「またね」とそれまでのやり取りに気を悪くした様子を微塵も見せない彼女は、落ちている模擬刀を拾い、所定の場所へ戻すと振り返りもせずに施設を出て行ってしまった。止める間もない。いや、どうしていいのか分からない、というのが正しかった。
隔たりなど存在しない。すべては彼の中にあった。