「はー、ロイドさんとちゅうしたい」
突拍子のない言葉は、彼女と親交を深くする者たち――とりわけ彼女の言う“ロイド”と深く関わりのある人物を呆れさせた。突拍子のない言葉ではあったが、再々彼女の口から出る欲望であったからか、動揺を見せる人間は少ない。それは常態化したイベントの一つといっても過言ではなかった。
頭が痛い、と米神を押さえるのはライナスで、聞きなれた発言の一つではあるものの返事に困るそれに何時も頭を抱えている。運の悪いことにラガルトとアイシャは傍に居らず――いや、面倒を察知してすでに逃げた後だったかもしれない――彼がひとりでの相手をしなくてはならなかった。もちろん、それは彼の人の好さ故である。
「お前、ほんとそれしか言わねぇな」
別に何ら特別なことはない。至って普通の日で、ロイドもライナスも命令があればアジトをあけて任務に赴くことは良くあることだ。寂しさを紛らわすために言葉にすれば、付き合う人間がいる。それが嬉しくて、肯定的な意見でなかろうとはにっこりと笑みを浮かべた。
牙のアジトにはこじんまりとした酒場がある。組織の構成員は曰く付きであることが多く、そうした人間の親交の場はもっぱら酒を飲める場所と決まっていた。喧嘩も多く起こるが、大きな問題にそう発展しないのはそこに陥る人間を創設者であるブレンダンがスカウトしないからなのかもしれない。ただゼロとはいえず、問題が起これば相応の処分は必ずあった。責任が取れるのであれば好きにすれば良く、責任の方法に生半可なものは少ない。恐怖政治とまではいかずとも、強い制裁はならず者を統制するには効果的だった。
そして運が良いことに、今の牙の組織にそう悪い人間はいない。捻くれ者こそ居ても、根は悪くない者が多いのは幸運としかいえない。
まただぞ、と笑う者が数人。まるで笑いを取っているのではないかと思うほど、彼女の言葉にブレはない。“好きなものは仕方がない!”と本人を前にして言えやしない言葉を言って拍手喝采の状態に気を良くする彼女に呆れる以外に何をすればいいというのか。こうも彼らの心を物にしているのならライナスがその場にいる必要はなかったが、悲しいかな、彼のリーダスの血がそうさせないのである。
「おい、酔っ払い。場所変えるぞ」
朝まで付きあってやっても問題ないが、彼女の体がついてこないだろう。おそらく月は頭上高く登りきってしまっている。昼間の暖かさは消え失せて、ちょうど良い酔い醒ましになるだろう。酒を飲もうとする手を掴み、彼は強制的にその場を後にする。この光景までが見慣れたものであるから“がんばれよー”などという無責任な声が背中にかけられて、ライナスは振り返ることなくヒラヒラと手を振ってこたえた。
月は半分に欠けていた。建物の屋上の古びた椅子に座ってアジト周辺を見下ろすのだが、これがなかなか悪くない。馴染んでいた場所から離れることに抵抗するかと思えば、すんなりとついてくる彼女は酔っぱらっていないのではと思える。しかし顔はほんのりと紅潮しているし、足元も少し覚束ない。椅子に座るはまるで大仕事をしてのけたように息をついた。
横に並べた椅子にライナスも倣う。何という名前の虫だったかいまいち思い出せないが、この時期にしか聞かない。
「寝て起きりゃ帰ってんだ。それで良いじゃねぇか」
付き合うこっちの身になれよ、とごちるものの身に覚えはあった。ライナス自身にも任務が下される前、ただただ兄が父が帰ってくるのを待たざるを得なかった時のことだ。不思議と心配はしていない。父兄に対する憧れが根拠のない最強説みたいなものを抱かせて、その武勇伝を聞きたくて待ち遠しかったことがある。自分とは少し形態が違うのだろうが、出迎えたい気持ちはよく分かった。そして彼女は兄だけにそうするわけではない。自分の時もまた兄と共に待っていたりするのだから無下には出来なかった。それが計算だとしたらとんでもない女だ。
「ちょっと険しい顔してる人が自分を見て緊張をほぐしたら嬉しいでしょー?」
「そんな険しいかぁ?」
「お家に帰るまでが任務よ」
「……そりゃまぁ」
“お家”というあたりに言葉の軽さを感じるが、言っていることは間違いではない。数年前にアジト傍の森で拾った時の彼女は、剣を握ったこともなければ魔法も使えない弱者の代表だった。ごろつきや野犬あたりに対処できるようには、と最低限の稽古をつけているのだが幸か不幸か実戦経験はない。そんな彼女に気を抜くな的なことを言われてしまうとどこでかじったのか不思議なのだが、酒に酔った顔はへらへらと頼りない、“まぐれ”というやつなのだろう、きっと。
「ライナスもさ、おかえりーっていったら笑うでしょ。これでも嬉しく思ってますよ?」
大して反っていない背もたれが扱いづらく感じたのか、ひじ掛けに体を預けて姿勢を崩す。まるで覚えのないことに、はて、と思いめぐらせてみるが、やはり覚えはない。彼女の記憶違いと思いたいところだが、そういえば5日ほど前は自分が出迎えられた側であったことを思い出す。
くたくたになるほどの内容ではなかったが、仕掛ける時間帯を考えると体のサイクルは崩れがちだ。長く続くなら慣れていくのだろうが、2日もあれば済むのだから体力と気合で力任せに押し切る形になる。やたらと警戒心の高い獲物だった、と思い返し、それゆえの煩わしさから少し手間取ったのは認める。民衆が牙を認めようとも人殺しに変わりはない。そして正義を唱えるのは権力を持つ者達だ。民衆の声は救いにはならない。自分たちは“正義”からしてみれば“悪”なのだ。今はまだ。その実現は何時になるとも知れず、ただ信じるしかない。いつまで続くのか、そんなことを考え出したら終わりだ。
「大丈夫?」
「あ?あぁ」
繊細でない自分に不似合いなその考えを頭を振って振り払う。
「私はこの世界の人間じゃないので、ライナスたちが家族なわけですよ」
「おう。拾った俺様に感謝しろよ」
「はいはい」
自分が家族を大事に思うそれを彼女が持っていたとしても何ら不思議はない。媚びをうっているとは思わない。楽しそうにも悲しそうにも、そして怒りさえもして全力でここに在ろうとするのだから、媚だとしても責める気にもならない。
兄もそう思っているのだろうか。不在の間、確かにのことを任されていた。ただそれはこの出迎えをやめさせることではなく、物を知らない彼女が変なことに巻き込まれないようにしろと終始している。何ら悪意もなく軽口のつもりで“飽きねぇやつだ”と同意を求めて言葉を投げた時も返答はと言えば“好きにさせればいい”だった。
「で、出迎えて兄貴は何かしてくれんのか?」
「? “ただいま”って言うけど?」
「はー、そんだけのためにお前は睡眠削ってんのか」
かつての自分もそうであったことをおくびにも出さず、心底呆れたと返すライナスには苦く笑う。
「別にロイドさんに限ったことじゃないけど、ライナスもってことなんだけど――。
“ただいま”って言ってもらえると何か家族として受け入れてくれてるんだなぁって思えるから」
「そりゃ4年も寝食共にしてりゃな」
“ちょっと違う”とは言うが、ライナスにはよく分からない。彼女は非戦闘員で、保護した理由が理由で牙のメンバーとは違う。どちらかと言えばリーダス家の居候的な存在だ。街の教会に預ける話もあったが、これ以上知らない環境へ連れていかれるのはごめんだと断固拒否して、あまつさえアジトで給仕でも何でもすると言うからずるずるとこのままになっている。落ち着いたなら教会へ連れていくという話はどこで埋もれてしまったのか、ライナスも思い出せない。結果、こうして馴染んでしまって今に至るのだが。
「まぁ元気になるから好きにさせてよってこと」
言って、少しばかり勢いをつけて椅子から立ち上がるは手すりへ近寄る。目を細めて暗闇の中にこらして、見つけた、と手を振る。釣られるようにしてその先を見れば待ち人だ。彼女の察知能力には期待できるほどのものはないのだが、こればかりは感心せざるをえない。
「すげぇな、おい」
彼女が勢いで落ちてしまわないように脇に立ち、倣って兄へ手を振るライナスの率直な言葉はを喜ばせる。
もしもこうした反応を自分の時にも示しているのならむず痒い。ふと思った。
「行こう。ライナス」
ただ、自分の時がどうであるかなど彼女に聞くのは気恥ずかしい。あとで兄にでも様子を聞こうとツンと袖を引っ張られるがままに、ライナスはへ連れられた。