「あら、あなた……」
意識の外から声をかけられて、おやと気付く。柔らかな青い髪の女性が立っていた。たしか……、と首をひねり記憶を掘りおこす。いや、記憶というよりは知識かもしれない。なにせ彼女とは【黒い牙】という共通の組織で通じながら言葉を交わしたことはなかった。自分のいた世界ではそもそも顔すら合わせてもいない。すべて伝聞だった。
ただ、ここでは違う。召喚に立ち会っていたし、修練の塔にも付き合った。彼女が起こした事件も知っている。見知った顔、親交のある友人を傷つけられたことに憤りはあった。が、やはりそこは自分以上に肉親を傷つけられて憤慨する別の友人が、怒りをこれでもかとばかりに持っていってしまったのも事実だ。そんなこともあった、その程度の付き合いしかまだ彼女は得ていない。
「ウルスラ」
名前を呼べば意味ありげに彼女は笑う。その意図はわからない。
修練の塔に付き合っている間は、なんだかんだで言葉を交わすことが多い。しかし修練の塔での慣らしを終えたあとの親交は、もはや相性に因る。もちろん彼女に限った話ではない。自分が誰かの一番になるのはなかなかどうして難しい、とは理解しているつもりだ。
「相変わらずあなたは四牙と仲が良いのね」
唐突な言葉だった。彼女の言わんとしていることなど分かるはずはない。ただ思うところはあって、は先程彼女がそうしたように倣って笑う。
「ねぇ、あなたはなぜ彼らと居られるの?」
「それって金魚のフン的ななぜ?」
「だって弱いじゃない」
「わたしの心に鋭い氷の刃が刺さってるけど?」
「ふふ。それで身を引き締めなさいな」
ほっとけ。というのが正直な感想だ。ただその場を後にしたくなるほど気分を害されない。召喚の何かが作用しているのか、自分の処世術の一つなのか。ムッとしはするものの、彼女はひどく不思議そうな顔をしてみせるのだ。
「上下関係なしのただの遊び仲間だからでしょ」
「理解できないわ」
彼女は強い人間に惹かれる。と報告書には書いてあった。白狼も狂犬も死神も、彼女のいう【強さ】は持っているように思うのだが、頑なに彼らと馴れ合うのを拒んでいるのはにも分かった。もちろん底知れぬ因果があるにはあるのだが――。
「ウルスラのそれって同性限定なの?」
「……そうね。そうかもしれないわ」
相当な男嫌いなのかもしれない。何がそうさせたのか、少しだけ興味が湧いた。
「おい」
もしかすると彼女の考えを聞くことで、自分の価値観に何らかの影響を及ぼすそんな機会だったのかもしれない。うず、として湧いた欲求に彼女と語らってみようか、と言葉を控えていた。そして発しようとしていた。のを、ぐいと体を引かれて拒まれる。ウルスラの顔は侮蔑の色を交えたそれで、端正な顔立ちであることが、彼女のそういった一面をことさら強調している。
「何やってんだ。お前ら」
太い腕が首を軽く締めていた。
「……狂犬」
鈴のような声だというのに、あからさまな敵意がこもって台無しだ。もったいない、とは正直思ってしまうのだが、アドバイスなんてものは届かないだろう。そもそも、物理的に今は何も言えないように喉元を締められている。苦しくはないが、きっと彼の中の“余計なこと”に該当するなら――考えたくはない。
「こいつに用があんのか?」
ウルスラの薄く碧い瞳が僅かに細められる。を一瞥するも呆れたように「ないわ」と吐き捨てる彼女は、用無しと言わんばかりに踵を返すや足早に去る。規則的に鳴り響くヒールの音が遠のいていく。彼女が典型的な男嫌いなら、振り返ることはないだろう。緩みなく続く音に確信するものの、寂しさを覚えるのも事実だ。ウルスラとライナスには決定的な因縁が存在するかもしれないが、にはないのだ。少なくともこの世界では。
「お前、アイツと仲良かったのか? あっちで」
首に回っていた腕はゆるんだままだったが、その声音からして機嫌は良くない。
「いや。会ったこともない」
「エリウッドのとこにいたんだろ? 戦ってねぇのか?」
「あの子、ヴァルキュリアなんだよね? 相性が悪過ぎでしょ」
「……ああ、一発で消し炭になるか。お前なら」
「こわ」
レベルは違えど、いつかのときにした火傷を思い出す。ひゅ、と心臓を握られたような気になって、すこし息も苦しい。日常の怪我ですら時々痛みを思い出させるというのに、改めて自分にはそぐわない世界にいるのだとは思うのだ。
「ねぇ」
「あ?」
「ウルスラ、もう見えないけど」
「そうだな」
「この牽制はまだ必要?」
嘆いたところでもとに戻れないのはもう何度も身に沁みている。その代わりに得るのが、自分の世界とは違う人間との繋がりだった。
まだ彼とはそう仲良くなれてはいない。そう思っていたがどうやら互いの認識に齟齬があったらしい。
ライナスは言われて初めて気付いたと言わんばかりに驚いてみせて、勢いよくから手をどける。あからさまにうろたえている姿は珍しかった。少し笑ってしまうが、興味が勝ってついつい顔をマジマジとのぞき込んでしまう。それが嫌なのか「やめろ」と大きな手が顔を押しやった。本当に彼の手は大きい。
「ニヤニヤすんな」
「心配してもらえたら嬉しいのは当たり前じゃない?」
「……兄貴がお前を気にかけてるからな。アイツらに利用されちまったら、また兄貴が怪我するかもしれねぇだろ」
「なんだ。私の心配はついでか」
分かってはいるのだ。仮に異なる世界線の彼と、自分の知る世界の彼と同じような関係になり得たとしても、彼の――ライナスの優先順位は不動のものだ。逆にそれが嬉しかったりもする。
「まぁ……お前は悪いやつじゃねぇし」
胡散くせぇけど、と付け加えるライナスはがよく知る彼と同じように笑う。これがたまたまであったとしても、
今この時の彼は自分という存在を受け入れてくれているということはハッキリしていた。
「わぁ惚れた」
語尾に見えないハートをつける。本心に誇張を混ぜているそれはとても仰々しいだろう。証拠にうんざりとしたような顔で、ライナスは見下ろすのだ。
「そういうのは兄貴に言えよ」
「なに。応援してくれるの?」
「やっぱやめ。お前と兄貴は絶対ぇダメだ」
「やぁ、肉親にそう言われると仕方ないなぁ」
「お? 諦めんのか?」
「やっぱ祝福って大事だと思うのよ」
「おう。そうしとけ」
形骸化したそこに本音はない。は変わらず彼らに接するつもりであったし、ライナスも危険でないならばと好きにさせるつもりだ。
には懐かしさが。
ライナスには新鮮さがあった。
感じ方に差異はあれど、心地良さを基準とするなら悪くはない。
「じゃあエクラくんのとこに行くから。心配してくれてありがとう」
「べつにそう……まぁいいか。後でな」
約束にもにた会話は不確かでいて緩い。曖昧で拘束力はないに等しい。けれどもこの些細な繋がりで、今は十分だった。