「。何やってんだ?そんな隅っこで」
ライナスがはたとの存在に気づいたのは、自身に課した鍛練を終えた時だった。突然、視界の端に現れた──わけではないと思うが少し驚いたのは確かだ。幽霊の類いには全く興味はない。が、生身の人間だと分かっていても、不意打ちのように現れると面白くない。更に、それが誰であるか分かって話し掛けているというのに、呆気なく無視されてなんとも言えない気分にもなった。
普段のせいだろうか。そう考えなくもない。
滴る汗を手の甲で拭う。同じように濡れているせいか無意味で、次は自身の黒いシャツを引っ張って拭いながら近寄る。反応がないのは距離のせいだと誤魔化しながら。
「おい」
ブーツの踵が石造りの床を固く鳴らして、存在を伝える。いや、そんな音はきっと聞こえてはいない。ふ、と手元が翳ったことで上げた顔が迷惑そうに少し歪んでいたのだ。
「あ、ごめん。呼んでた?」
それでもそうした不快を示したのは一瞬で、すぐさま平時のものに戻る。人当たりの良さからなのか、人を選んでいるのか、分かりかねるが十中八九は前者なのだろう。
「もう誰もいねぇぞ」
「……ほんとだ」
自分も人のことは言えないが、どうも夢中になりすぎるきらいがある。同じように訓練していた英雄たちは食事にでも行ったのだろうか。それともたまたま出払ってしまっただけなのか。いつも騒がしい鍛練場には二人しかいない。少し異質だ。
「気にしないで行って良いよ?」
だだっ広いそこに一人になっても構わないとは言う。危なくはない。放っておいても問題はないのは分かっている。鍛練で小腹も空いた、喉も乾いた。食堂に向かうつもりではあったのだ。少なくともを見つけるまではそう決めていた。
どかり。ライナスは腰を下ろす。意外な行動には思わず凝視した。言葉通りに受け取って、きっと腹を空かせているに違いない彼は、ここを後にすると思っていたのだ。驚くのはばかりではない。当人ですら、何で腰を下ろしてしまったのか、説明を求められようものならきっと答えられはしない。
ただ彼が助かっているのは、が疑問を投げないからだ。驚きながらも、彼女は彼女の作業に戻るのだから。
「ゴソゴソと何やってんだ?」
壁に寄りかかったものの、背中が汗で濡れていてヒヤリとする。気持ちの悪さに服をはためかせて空気をいれながら、ライナスが訊く。
「布を取り替えたいんだけど、初めてで上手くいかないのよね」
「あ?」
「ここに来てから剣を使う機会が増えてるから、この部分が擦りきれちゃって」
ほら、と見せられたのはそれまで使っていた布なのだろう。所々に穴が空き、また少し染みがある。おそらくは血だ。自身のものなのか、敵のものなのか、分からないが聞きたくもない。
「下手くそだな」
「わたしの埋もれた記憶を掘り返してやってるんだから仕方ないでしょ」
得物の持ち手に布を巻くことは珍しくない。握りやすさの補正と滑り止めの効果があるのは広く知られている。ライナスとて例外ではない。何なら彼は自身の手にも布を巻く周到さがある。
「そこで巻き返しちまったら均等にならねぇぞ」
「え?どこ?」
「ここ。押さえも足りねえ。ゆるんでる」
「……むずかしい」
「あーあー、こりゃすっぽ抜けちまうな」
不器用だな。と改めて言ってやる。こんなものを振るってしまうと、間違いなくの手から飛んでいってしまうだろう。シャレにならない。一緒に戦うようなことはないだろうが、仮にそうなった時、敵ではなく背後の味方にやられるなど無様以外のなにものでもない。
「前のは上手く巻けてたじゃねーか」
「むかーしの話だから」
過去に彼女の得物を見たときだ。持ち手の部分に布がきれいに巻かれていたはずだ。剣を使う機会が他と比べて少ないとしても、使った期間はそれなりのはずだ。だがよれている様子はなかった。確かにが言うように、使う頻度も一つの原因ではあるのだろう。が、この雲泥の差を見て、ああと納得する──他の誰かがやってやったのだ。
「貸せ。やってやるから」
「ライナスって良いヤツ」
「後ろから味方に殺られちまうとかシャレになんねぇからな」
奪うように武器と布を取り上げるライナスは、そう皮肉を投げる。それでもやってやるのだから、やはり面倒見は良い。
慣れた手つきでぐるぐると巻かれていくのを、は興味深そうに眺める。作業自体は頭に入れてるのだが、自分でやらないから身に付かない。自覚はあったが、端から見る人間からすると手を出してしまうほどに覚束ないらしい。
少し懐かしい気がした。
「こんなもんか?」
握りやすさの調整をしてやろうと、ライナスが声をかける。実際に握らせて確認するあたり、彼なりのこだわりがあるのだろう。ついでに曖昧な納得は良しとしない。その違和感で実力が発揮できないのは本末転倒だ。だからこうして命を預ける武器の手入れを、ライナスが怠ったことはただの一つもない。かといって彼が特別なわけではない。戦う人間とはそういうものだ。そうでなければ生き抜くことは難しい。だからこそが不可思議な人間に見えてならない。剣を振って生きてきたのだ、分からないわけがないのだ。
ライナスは二回りほど巻いて厚みを増やしながら、横で興味深そうにするを傍目に見て思うのだ。
「出来たぞ」
「早い!すごい!」
「……バカにしてねぇか?」
「なんで私が相手だとひねくれるかなぁ」
「胡散臭ぇからだろ」
ほら、と結び終えて武器を渡す。腕をまっすぐに伸ばして柄を握るは、満足そうな顔をしている。良い具合に出来たのだろう。そう悪くない気分だ。
「ライナス。ありがと」
礼もあるなら尚のこと。
じわりと体が熱くなる。そうだ、鍛練を終えたばかりで熱が放出しきれていなかった。微かなむず痒さは無視できる。服を思い出したようにはためかせるなら、誤魔化せる。それほどに小さい。
きっと彼女に他意はなかった。額面どおりで良い。斜に構えているつもりはない。構えるのは疲れる。その通りが楽で、その通りであって欲しい。
「あー、腹へっちまった」
おう、と返してやればよかったのかもしれない。
億劫そうに立ち上がるライナスはの顔を見ようとはしない。嬉しそうな顔が、苛立ちを運んでくる。そうさせたのは自分だというのに、面白くないのだ。彼女を放ってそこを後にしようとすれば、は動かない。
「……来ねぇのかよ」
ここにとどまる理由はなくなってしまった。もそうだ。
誘う言葉としてはあまりにもぶっきらぼうで、分かりづらい。極力、彼女を視界にはいれない。それでいて様子をうかがう自分をライナスは気持ち悪いと自覚している。
「いくいく。私のデザートあげちゃう」
それでも彼女は自分の分かりづらい誘いを汲むし、下手に詮索もしない。「お礼」と続けるのだが、そんなつもりで助けたわけではない。貰おうとは思わないが、とりあえず保留にしておく。
大股に歩きだせば「待ってよ」と弾んだ声が追いかけてくる。
昔から傍にいるように、当たり前のように、は隣を歩くのだ。そしてそんな彼女に違和感がない。すんなりと隣にいる事実が、許してしまう自分が最大の謎だった。