頭の頂点にそっと


Linus @ FErekka
Published 18.05.29
title by 追憶の苑

 

 溜息が零れた。どうしようもなく怠い。風邪をひいたとかそういう体調のことではない。薄い毛布を体に巻き付けてベッドに寝転んでを朝から続けているはもう一度溜息を吐いた。外が段々と暗くなって、気づけば夜間近。喉が渇けば持ち込んでいる水筒で渇きを満たしているのだが、不思議とお腹がすいた、という気分にはならなかった。何度か短い眠りを得ているもののスッキリとしなくて起きだす気分にならない。何時もならそれはそれとして人間らしい生活に身を置けるのだが、どうにも今日はそんな気になれずに居た。
 ごそごそとミノムシのように動く布ずれの音だけが部屋に響く。明日になればマシになるだろうか、とどことも決めていない場所を適当に見つめながら思っていた。運動の一つでもすればまた何か違ってくるのだとは思うが、始めるまでがひどくスタミナが要って矢張り動けない。ただ自分に甘いだけというのは解っているだけに自己嫌悪もあった。
 いっそ数日で良いから思考停止に陥ってくれとすら思う。そう今一番望むのは現実逃避それだった。

 そうした状態をさらに続けて2時間だったか、まどろんでいたところを来訪者はやってきた。

「よぉ」

 部屋の入室許可を得ずに入ってきたのはライナスで、悪友だ。着替えの最中であったら叩きだしていたかもしれないが、ただ自分の殻に閉じこもっている今は何ら感じるものはない。ちらりと砦と化した毛布の中でライナスの姿を見止めても何を言う気にもならない。それでも彼は勝手知ったるを通して今日の夕食をテーブルへ置いた。そしてまたすぐに部屋を出ていく、と思っていたが彼は部屋にとどまる。あろうことかベッドに座るのだ。正直、早く出て行ってほしいのが本音だが、鋭く見える目付きが言葉を飲み込ませる。
 ライナスはよく喋る方だ。何かしらの会話の種を見つけて来てはそれを与える。一方的であることも多く、時折うんざりさせられるが何時ものそれは無い。勝手にしてくれ、それ以外の何を思えばいいのか。

「っとにお前ってあからさまだよな」

 彼にムッとした様子はない。返ってくるものが刺々しいものでないからかが自分勝手に出したそれが小さくなるのをライナスは確かに感じている。毒気を片方が持っていなければ、流れるように持っている方は抜かれるというものだ。の持つそれが小さくなるのを待つまで時間はそうかからない。彼女にとってこの日初めての食事となるであろう夕食からはまだ湯気が立ち上っていた。
 温かい食事は美味い。空腹は短気を起こす。彼女の行動の理由をライナスは知っているが、増長を促す原因は潰しておいた方がいい。これは兄からのアドバイスだったが、身に覚えがありすぎて即納得だ。だから改めて促す――彼らしい一言を添えてしまえば、無下には出来ず、のろい動作で起きだすと部屋にある簡素なテーブルについた。いただきます、という所作を見るたび、ライナスは実感する。

「……なに?」
「いや、見てるだけ」
「減るから駄目」

 バカな話に付き合う傍らで彼女を観察する。至って普通の、どこにでもいる女だと思う。ただ、このベルンには黒髪に黒い瞳というのは珍しい方だろう。とはいえ、さまざまな人種が行きかうこの大国ではそこまで目を引く対象にもならないか。おそらく興味を引くのはこうして共に生活をしている人間だけかもしれない。食事前に彼女は手を合わせる。“いただきます”という食事開始の言葉は一緒だが、彼女のような所作は誰一人としてしない。無骨者が多く集まるから、というわけではないのは街で時折食事をするから、一般マナーから大きくかけ離れてはいないはずだ。食事など一つの疑問でしかなかった。しかし彼女は変人ではないのだ。彼女はこの国の――いや世界に疎い。

「兄貴なら明日帰る予定だ」
「うん」

 素っ気なく聞こえたが、明らかな喜色が混じっていて素直過ぎる反応に自ずと笑ってしまう。

「俺でも話は聞けるのにな」
「うーん。話をしたいわけじゃないんだけど、ライナスがこうして傍にいてくれるのはうれしい」
「あんな目しといてよく言うな、お前」
「ごめん」

 すとん、と発せられた謝罪は彼女の罪悪感がよく表れている。受け入れないという選択肢はなく、ライナスは続けた。

「ま、気晴らししたけりゃこれからでも連れてってやるよ」
「んー、なんかもう大丈夫」

 食事のスピードは悪くない。一食目で空腹もあったかもしれないが、食べるという本能的欲望を行えるほどには回復したということだ。そうすると彼女は調子が出てきたのか、ライナスをじっと見る。察してくれ、というその視線の問うところを彼はよく理解していた。あえて見えないようにとテーブルの下に置いていた中瓶を差し出せば、にやりと笑むのだから正解だろう。
 先程までの警戒心が嘘のように消えている彼女は、こうなってしまえば心を許している人間には饒舌だ。全てではないのだろうが彼女はぽつりぽつりと話して自分の心を整理する。一方的に聞くのはあまり得意でないライナスではあったが、あまり苦にならないのは今日だけの話だと思っているからかもしれない。あくまで今日は兄の代理だと。
 しかしそう悪くない。皆で騒ぐ酒場の方が自分には馴染みがあり楽には思うのだが、周りの目がない分――例えば知らず周りが望む関係性を演じていたり――自由になれる。ただただ純粋に興味深い話がよく聞けた。

 よく耐えている。知らない世界で、知らない人間に囲まれて、運が良いのもあるがそれだけではやっていけない。適応しようとする生存能力が確かに彼女にはあった。時折投げやりな言葉を発してはいたが、どこまで本心なのかは分からない――少なくとも彼女の消極的な言葉が実行されるまでは。
 今回のこれも彼女のスタミナ切れによるものだ。心配性な兄に頼むといわれてこうしている訳だが、普段は憎まれ口を言い合う仲であるからこうした弱った状態は新鮮だ。興味がわく。

「なにニヤニヤしてんの?」
「ばっか、安心してんだよ」
「? なんで?」

 なんといえば良いのか分からない。元気になった。ただそれだけでよく分からないあいまいな不快感――おそらく憂慮――は消えているのが答だと思うが、うまい言い回しは思い浮かばない。考えるよりも動く方が得意なのだ。
 おもむろに立ち上がるライナスは彼女の側にある椅子に座ることはしなかった。食事に付き合ってやっても良かった。サラダの葉物を口に入れシャリシャリと音を立てながら咀嚼するは訝しんで目で追う。彼の大きな手は宙を飛んでいるようで、その着地点は寝癖のついてしまった頭の上。存外に小さく思えるが彼女は大人で平均的な成長を遂げている。それでも掌にすっぽりとおさまるのが良い。ポンポンと幼子にするようにする。揶揄いの気持ちは全くない。そうしたくなっただけだ。

「子ども扱い禁止」
「別にそういうつもりじゃねぇって。良かったな、っていうやつ」

 これでも心配してたんだ。そう付け加えるライナスは一歩踏み込む、との座る椅子の背とテーブルに手を掛ける。何かを言いだす前に、手が出る前に、ほんの少し体をかがめた。

「……うっわー、キザ」
「はぁ?」
「私の国だと馴染みが薄いのよ……」

 外国の習慣だ、と付け加えるは驚いているのだろう。照れ隠しもあるのかもしれない。ただ、心底嫌がっているようにみえない。ならそれでいい。ライナスはこれまで挨拶にキスを加えたことはない。避けていた、というよりはそうした間柄ではないからだ。肉親は皆男であるのも多分にあるだろう。しかしそんなことはどうだっていいのだ。仮に詰問されても“そういう気分になった”とあっけらかんとして答えるだろう。ただ、彼の知る一般家庭の挨拶の一つであるそれに見せる反応が好ましいものだった。しつこくすれば手は出てくるのだろうが、そうでなければ――柄にもなく可愛らしいとすら思う。自分と年は違わなかったはずだ。兄が彼女を妹のごとく可愛がるのを知れたのが嬉しかったのだろうか。

「またお前が寂しがったらしてやるよ」
「いえ、結構です」
「遠慮すんな」
「してないっ」

 新しいおもちゃを見つけた子供のようにライナスの気分は良い。単純な性格であると自覚している彼はムキになるの頭をやや乱暴に撫でると満足した。もともとは彼女を心配してやってきたというのにだ。

「よしよし、元気になったな。じゃあ俺は明日仕事だから寝るぞ」
「はいはい。ありがとう。おやすみ」

 気恥ずかしさが残るのか、は軽くライナスの手を払いのける。面倒臭そうに、しかし口角をわずかに釣り上げて追い払うのだから彼女の本音は筒抜けだ。

「おやすみ」

 半端なやり取りの名残惜しさを残すのは明日に響く――理由をこじつけてもう一度先ほどの場所へ触れておいた。 


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