夜半にドアがノックもなく開く。本を読んでいたはビクリと体を震わせてそちらを見た。彼女の部屋は角部屋で、廊下に出るとすぐに窓があった。雲がかかっていたが、明るい。満月なのだろう。ただ、その明るさが不気味さを運んできたのは、ぬ、と伸びてきた影のせいだったのかもしれない。その影の持ち主を知れば、ああ、と納得して不安は消え去るのだけれども。
「おかえり。ライナス」
逆光の中でも彼と分かるのは、その立ち姿を見慣れてしまっていたからだ。
名前を呼ぶなら、躊躇を見せながら彼は部屋へ入ってくる。
「戻るの早かったね……って、なにその顔」
あからさまに不機嫌だと言わんばかりに、ライナスは不貞腐れていた。彼の左の頬は赤く腫れている。任務についていた彼が殴打されるのは考えづらい。命を狙うのだ、まだ若いとはいえそれなりの体躯に成長している男を前に素手で立ち向かう先の結果は、火を見るよりも明らかではないか。となれば、それは彼の身内によるものだろうと。
「救急箱持参とか用意がいいね。ほら、ベッドへどうぞ」
ターゲットによる返り討ちならまだしも、身内からの殴打痕を回復術者に頼るのは彼のプライドが許さなかったのだろうか。どちらにせよ、誰が見ても兄弟間で何かあったのは明白で、その傷跡を他者に見られるのであれば、彼のプライドによる行動は本末転倒だ。誰か一人を味方につけて口止めをし、傷を回復させれば周りに知られることはないというのに。
「私がライブを使えたらいいんだけどねー」
「はー」
ライナスは盛大にため息を漏らしながらゴロリとベッドへ寝転がる。それからを座らせると、頭をもたげて当たり前のように彼女の膝に乗せるのだ。
「聞こうか?」
「いー。兄貴が正しい」
「手伝う?」
「は?知ってんのか?」
「知らない」
消毒くらいしかにはしてやれることはない。医学の心得などはなく、自分の世界でされていたような基本の応急処置しかしてやれない。この世界にだって医者はいる。けれど彼らを頼らないというのは、傷を負ったライナス当人が、大したことではないと分かっているからなのだろう。
ただの殴打痕かと思ったが、彼からしてみればきっと「つば付けときゃ治る」というような傷が唇にも小さくあった。そんなライナスの大雑把さを知るからしてみれば、その程度でここに来る彼はきっと何かしらを望んでいるのだ。
だれか氷の魔法を使える人に氷でももらおうかと考えて、使える人間を浮かべてみる。食堂に行けば誰かいるだろうか。
「氷もらってきてあげる」
「いらねーって」
「早く冷やしたら、明日は目立たくなってるかもよ」
「…………」
ライナスはしばらく思案する素振りを見せて、頭を上げる。膝の上の重みがなくなって、足が軽い。するりと引き抜いてベッドから下りる。数分のことだったが、解放された気分だ。
「余計なこと言うなよ」
大きく伸びをしながらは「はいはい」と適当な返事をして部屋を出た。
「」
暗がりで声をかけられて、の体はまたしても跳ねる。明るい場所で声をかけてくれればいいのに、と思いながら耳から入った男の声は馴染み深い。
「おかえり。ロイドさん」
「あぁ。……ライナスは行ったか?」
「きてるよ。中に氷出せる人いる?」
目と鼻の先には食堂に通じる半端に開かれたドアがあった。彼がそこから出てきたわけではなく、もしかしたら今から彼もそこに合流するかもしれないというのに、はあえて訊ねる。と、ロイドは一瞬、体を固めはしたものの、隠した利き手に持っていた革袋を取り出した。はじめからそのつもりで待っていたのだ、彼は。
「ロイドさんが持ってく?」
答えは決まりきってはいる。が、そう聞かずにはいられない。が人の悪い笑みを浮かべながら、氷の入った革袋を受け取ると、ロイドは苦虫を潰したように顔を顰めた。「からかうなよ」と短く言われようものなら、それ以上続けるつもりはない。彼の仕返しは割とバカにできないのだ。
「手伝えることは?」
「……あるにはある」
「じゃあやる」
「お前に渡すから、ライナスにはやるな。外には絶対に持って行くなよ」
「りょーかい」
ほんとに大丈夫か?という疑念がロイドの表情にはありありと浮かんでいる。
「終わったら燃やしておけ」
「そういうの、私に教えても平気なの?」
「……お前がいなくなれば、また新しくなる」
ロイドに殴られてライナスが素直に受け入れるのは、原因が牙の在り方に関わっていることが多い。そしてそれはが知るべき話でないことがほとんどだ。【黒い牙】が義賊であることは知っている。実態が血なまぐさいものであるのも、なんとなく分かっている。けれども、その惨憺たる現実を知らされてはいない。そしてロイドもライナスも彼女に教えるつもりはない。元々、牙の構成員とするために保護したわけではないのだ。
「もし変な奴らに襲われたら、牙の言葉が分かると逃げやすい」
その場に牙がいなかったらどうするのだろうか。是が非でも駆けつけてくれるのだろうか。この電気もない世界に、どう危機を察知し、そう都合良く現れることができるのだろうか。自身の世界に比べるとだいぶ不便なこの世界では、疑問が尽きない。
それでもこの男たちの、宣誓にも似た精神は心に深く突き刺さる。彼らは恥ずかしげもなく“守る”と言うのだ。
「自分に返ってくるなんて、手が抜けないね」
そしてまた、意図してか、たまたまなのか、こうして自分に役割を与えてくれるのだ。この場所にいて、後ろ向きにならない役割を――この件はたまたまの類かもしれないけれども――与えるのだ。
だからくたびれた紙切れを受け取るの顔は、初めておつかいを任された子どものような、頼られる嬉しさをにじませる。
「そういうことだ。二人で励めよ。あと、余計なことは言うな」
「わー、おんなじこと言ってる」
「……言うなよ」
誤魔化すように手が伸びて頭に置かれる。大して年の差はない。が、やはり牙としてライナスよりも長く働く彼はだいぶ雰囲気が大人びている。そういえばライナスも違った意味では成長途中だ。と、彼の存在を思い出す。
「おっと、ライナスが待ってる。おやすみ、ロイドさん」
撫でられることに嫌悪感を持つことも、子ども扱いされているとも思わない。ただ、やたらと恥ずかしさだけはあって、は逃げるためにわざとらしくポンと手を打つ。
そんな彼女をロイドは理解して、なお手を伸ばす。逃げたからなんだというのか。別に深い意味などありはしない――彼女は大事な家族なのだ。
「おやすみ」
そう言って平然と彼はのまぶたへ唇を押し付ける。仕方がない。この世界の挨拶のひとつ、らしいのだ。かつがれているのでは?とさすがのも最近になって思い始めたが、なにせ男所帯であるし、そもそも家族として在るのはリーダス家くらいだ。比較対象が他にない。
それを逆手に取っているのかもしれない。わざとらしく音を立てられ無理に意識させられては、抵抗の威力が削がれてしまう。彼の仕返しはやはりバカにはできなかった。
部屋に戻ると、ライナスは依然としてベッドの上に我がもの顔で寝転がっていたが、の姿を見止めて体を起こす。
口が固く縛られているのを確認して氷の入った革袋を渡すと、慣れたように彼は自身の左頬へ押し当てた。
「つめて」
「がまんがまん」
笑いながらは先ほどロイドから受け取った紙切れを、あまり使われた形跡のない机の引き出しへとしまう。今それを話題に出しては“余計なこと”に抵触するに違いない。折を見る必要があった。
「何隠してんだよ」
「ラブレター」
「は?らぶ??」
「恋文のほうが伝わる?」
「……」
「え、本気にしないでよ」
「してねぇ!呆れたんだよ!」
「切れた唇に響くよ?」
噛みつかんばかりに大きく口を開けたライナスは、ビリと走る鋭い痛みに慌てて口を閉じる。声量も押さえた。みっともない姿を曝けだしている今は、何をしても分が悪い。
「もう戻る。氷、ありがとな」
「うん。おやすみ」
「……おう」
あっさりしていた。毒気を抜かれるのと同時に淡白過ぎやしないかと思うのだ。
「なに?」
何かを期待していた自分にただ驚く。キョトン、とした顔をして――そんなのはこっちがしたい。
「ライナス」
「あ?」
部屋を出ようとするライナスを呼び止めるをふり返る。つい先日まで目線の高さが同じだった気がするというのに、気付けば頭一つ分の違いがあった。「ちっせ」と思わず本音が漏れ出て、その差を確かめようと手が出る。それは頭の上に柔く着地した。
「……うーん、デジャヴがスゴイ」
「お前、ホントよく分かんねぇ言葉使うな?」
ぐりぐりぐり。わしゃわしゃわしゃ。
ライナスの手にかかれば、あっという間に鳥の巣のできあがりだ。「もう」と手をはらいのけて、手ぐしで乱れた髪を整える。そうして彼女の関心がそれている時くらいしか、この悪ふざけは成らない。
手伝ってやるていで、乱れた前髪を整えてやりながら言葉のない寝る前の挨拶をする。
「そこまで似る必要あった??」
「なにが」
「なんでもない」
そうした挨拶に、が同じように返すかといえばそんなことはない。ここに来てもう2年は経つが、慣れたフリをするだけで、未だに慣れていない。特に不意打ちで及ぶなら、とんでもない声を出される。そこが面白いといえば面白いが、またいつかの時にとっておくとする。
が逃げず、軽い調子で体側を叩いてくる。痛くも、なんなら痒くもない。これでも彼女が反応を返してくるまでにそれなりに時間を要していた。あの頃を思い出せば――ずいぶんと距離は縮んでいた。