クロードが彼女、の後ろ姿を認めたとき何をしているのかよく分からなかった。両腕を伸ばして、さらには手の指すらも目いっぱいに広げている。陽光が眩しいからとかざすのとは違った振る舞いに、はてと首を傾げながらしばらくはその様子を見守っていた。というよりは考えた。
その間に彼女に親しげに話しかける男がいた。一言か、二言か、言葉をかわしている。読唇の心得はないが、が少し頬を赤らめるなら、明白なのだ。
おもしろくない。正直思うが、彼女には彼女の人脈があって、それを自己中心的に壊すわけにはいかない。解っているのだ。生きていくために必死なのは。
ちょっとしたことでは見つけられないだろう建物の影から窺うクロードは、自分のことなど実はコマの一つにしか思っていないのでは、という猜疑心と戦いながら恋人の様子を傍観するしかなかった。恋人といったところで、もしかすると自分の強引さに呆れた彼女が付き合っただけかもしれない。不安がまとわりついた。
はそれなりに強かで、自分がいなくとも生きていける。自信があるという彼女に、まさかと信じられないのは、彼女を手元に置いておきたい欲の表れだろう。多くの人間はそれなりに環境に適応できるし、生きていける。知らないほど、幸せな世界に育ったわけではないのだ。
出来るなら自分の世界に、自分の隣に立ってほしいと、求婚にもにた言葉に、が困ったように笑った事を思い出した。その表情に胸が締め付けられた。理由を知ることはできる。想像もできる。ただ、明確に彼女の言葉として聞くことが出来なかったのは、自信の無さだ。
自分に何ができるのか。自分のために、大望でいてしかし幼少期からあった当たり前の望みに、彼女は身をやつしてくれるのか。そうして欲しいと願うことすら――。
「クロード」
はっ、とガラにもなく動揺した。気を張っていたはずなのに、声をかけられ認識できる距離に近づくまで気付かなかった。目の前に意識を集中するなら、は当たり前にいて、先程まで彼女の隣りにいた男はいない。
「あ、いや、盗み見るつもりは」
「なにを? それよりちょうどいいから話し相手になってよ」
来い来い、と手招きされる。いつもは裾を引く、そんなあざとさを彼女は見せるのだが、今日はない。それは彼女の天然の行為なのか、意図したものかを計りかねてしまうのは、残念ながら付き合いの程度が知れてしまう。
参った、と頭を掻きながらも、良い機会だ、と思ってクロードは東屋の椅子に腰掛けた。
「さっきのオトモダチは良いのか?」
「たまたま偶然だから。あっちも用事があるみたいだしね」
「その割には距離が近かった、し、あんたの顔が赤かった」
「自慢じゃないけど、褒められ慣れてないので」
へぇ?と片眉を上げてみせるクロードに「見て」、と色褪せたテーブルの上に、は掌を下にして両手を差し出して見せる。
淡紫色に彼女の爪は染まっていた。
多くは縁起が良い紅色が主たる色を好むものなのだが。
「暗夜は寒色系が好きなんだって」
「暗夜……ああ、あのお姫さまか」
「知ってる?」
「まぁね。斧を使ってみたらどうかと言われたんだ。ご丁寧に先生へ提言してくれてたよ」
「へー。でも大人のクロードは確かに……」
「あーあっちの話はやめてくれ」
「なんで」
「スカしてるから」
「自分じゃん……」
「複雑なんだよ、男心ってのはさ」
肩をすくめるクロードは、「どれ」との手をとる。
そうすることで話題を意図的に外すのは、彼には珍しくない。恋人であったとしても、は彼のすべてを知りはしない。
また逆も然りだった。
それでも互いにうまくバランスが取れているのだから、今はまだ二人の相性は良いのだろう。こんな異世界で話せる内容は、知れていた。どうしたって知らない土地の話は遠い。実感などない。そこにある共感は本当に存在するのか――ざわりと蠢いた。知らぬふりをしていたそれが、頭をもたげている。不安という名をしているそれは昔から自分に執着していた。出てくるな、と頭を押さえつけても気付くとこちらを窺っているのだ。
「俺は俺だから」
あの男は成し遂げたのだ。おそらく。
思わず漏れた言葉は自分を言い聞かせるためのものに他ならない。あの男――自分だとしても先にいて、しかも得ているのは面白くない。未来だから、とクロードは安直にはなれない。
この様々な世界線を目の当たりにすると尚更だ。
これからの取捨選択がどうしたら望みの道に繋がるのか。あいにくとあの男は自分と等しく符号で結びつくことはない。
興味本位で話しかけたこともあったが、多くを語らないどころか、の事を訊いて話を逸らす。
そうだ。
既に自分にという存在があることで、あの男の過去に自分はいないも同然だった。
「」
「うん?」
は困ったように笑う。手を取られたままだが、振りほどく気にはならない。彼の素性など知りはしないが、それは彼にも言える。
どこまで踏み込んでいいのか分からなければ、そんな深い関係など望んではいないのかもしれない。ただ少し、そういう時に側にいてくれるなら……そんなものなのかもしれない。
妥協というわけではなく、なんとなく聞けない。ただそれだけで、この関係は継続している。明らかにする必要はない。臆病であると同時に、一人の人間を受け入れる余裕などそもそも自分は持ち合わせていなかった。
どこまで訊いても良いのだろうか。
もしかすると彼に話を切り出させる雰囲気というものが、自分は作り出せていないのか。いやそれは驕りでしかない。そんな力などない。
そういうものは自然と運ばれるに違いない。その運びがないのは、時間も絆も諸々が足りていないのだ。
かといってがそうしたことに焦りを覚えることはない。別れる相手だと端から決めつけているというわけではない。先の見えない未来だというのに、漠然と彼との先は長い――そんな確信があるのだ。
だから彼に手首を強くつかまれても厭いの感情はない。むしろ、珍しいとすら感心して先を知りたくなる。狡いことなど承知で、彼の心の内を知りたくてたまらないのだ。
こんな平凡極まりない自分のなにが、どこが、どうして、彼に問いたくて堪らない。
そして同時に怖くて堪らない。
エメラルドの瞳はきっと自分よりも先を見越していて、自分よりも堅実に事を企てている。
そんな彼の瞳が切なく揺れるのをどうして気に留めないでいられるというのか。
引き寄せられたのかクロードの顔は近く、はその顔立ちの良さに息を呑む。
年下のあどけなさがあるというのに、時々雄々しくあってドキリとさせられる。
「クロード。顔、ちかいって」
「そうかい?」
そうして少しひるんでいると、唇を掠め取って平然としている。そういう仲だからと言われてしまえばそれまでだが、やはり不意を狙われてしまえば、はひどく動揺した。
「」
きっと誰が見ても羞恥に顔は染まっていて、彼にはいじりの好機だろう。
「く、クロード。まだ感想聞けてない」
触れることも、触れられることもできるのに。
あと一歩踏み込めば、きっと何かが変わる。
そうわかっていながら、お互いにその一歩を――恐れていた。