特に打算的な何かがあったわけではない。単純にふとこの世界で、召喚師というだけで、重たすぎる責任を負わされた彼を労おうと思っただけだ。労うに値する確かな結果を彼は前日に残していた。人の良い召喚師は快く出迎えてくれるだろう。
拳を握ってノックする。小気味よい音と反比例した小さな声での応答を確認して部屋に入れば、普段と何ら変わらない召喚師の後ろ姿が見える。
おや、とよく分からない違和感にクロードは首を傾げるものの、その正体はまだわからない。
「なに?」
おっと。召喚師殿は機嫌が悪いのか?
普段なら振り返り、出迎えてくれるのが常だ。というのに、彼は手を止めることなく机に向き合ったままで、頭を抱える素振りすら見せている。そんなにも忙しいのだろうか。時折、他の世界の軍師と話をしているのを見かけることがあるが、人当たりのいい青年、というのが抱く印象だ。
「忙しいなら出直そう」
やれやれ、とクロードはタイミングの噛み合わなさにバツが悪い気がして、頭をかく。大仰に見える所作は、召喚師に対する一種のアピールではあったが、背を向けたままの召喚師相手には無意味であり、彼の率直な気持ちはただ空振る。
仕方がない、と踵が向きを変えるのに時間は要らない。一歩足を踏み出し、踵が音を鳴らすと堪えたような何かが聞こえた。
思わず勢いよく振り返り、大股に距離を縮めるクロードの心臓は少し鼓動が早い。自分に非はない。そうした上で泣かれると居心地の悪さは輪をかける。
彼は疲れきってしまったのだろうか。なんと声をかけたら良いのか分からないまま、肩をつかむ。思ったよりも細い。その頼りなさに驚くのとハラリとフードが落ちるのはほぼ同時だった。
「……?」
「うん?」
「なんであんたが」
ここにいるんだ?そんな格好を?どちらを訊きたいのか迷っている。エクラのローブを着ているは緩く唇に弧を描いていた。どうやら先程の泣いているように聞こえたのは、彼女が笑いをこらえたものだったらしい。
ひどく毒気を抜かれて、クロードは大きく息をつく。その場にしゃがみ込みさえした。安堵が大半を占めてはいたものの、してやられた気分もしっかりとある。
「あのな、俺は泣いてるのかと思って……」
「なに。エクラくんを泣かせるようなことしてるの?」
「はぁ?なんでそうなるんだ?」
「やましいことがあって謝りにきたのかと思った」
「の俺に対する評価がよーく分かるよ」
やれやれ、としかしそう見られても仕方がないという自覚はあるのか、クロードは苦く笑って「ヤラれた」とぼやく。
「で、エクラは?」
「ああ。オーバーワーク気味だったから休暇取らせてる」
「オーバーワーク?」
「働きすぎ。根詰め過ぎ」
の言葉に嘘はない。召喚に体力を消耗するかどうかはそういえば聞いたことはない、が、召喚するだけが彼の仕事ではない。聞けば、戦争というものが対岸の火事のような世界で生きてきた彼には、きっとこの世界の生活はつらいことのほうが多いだろう。唐突に召喚され、“この国を救って欲しい”とは“この国”の身勝手な要望だ。それだというのに、彼は引き受けたのだから生きづらい性格の持ち主なのかもしれない。
しゃがんだまま、自身の膝を支えに頬杖をつくクロードはを見上げて問う。
「それにしちゃ、ずいぶんと優しいじゃないか」
「嫉妬?」
「そう」
別にエクラという人間に対して嫌悪感があるわけではない。彼の誠意には素直に敬意を抱いている。
にこ、と訊かれ同じくにこ、と相好を崩す。薄っぺらい。
「同郷のよしみだよ」
たぶん。と付け加えるのは、同郷というのがおそらくの域を出ないからだ。共通点がありながら、やはり差異がある。彼女が自身の世界を有に10年ほど離れていたことを思えば当たり前かもしれないが、顔見知りでもなんでもない彼との世界が同じである、という確信は持てないでいる。とはいえ、些末な話でもあった。それは当たり前に彼女が有する慈愛の一種でしかないのだ。
「で、はなにしてるんだ?そこに座ってるだけじゃないんだろ?」
「資料整理とか。ほぼ遊んでるけど」
「なるほど?」
「今おもしろ……、じゃなくて考えてるのは合理的な相性の読み取り。こういう組み合わせはどう?」
「げ、ローレンツ……」
「仲良いじゃん?」
「そりゃ嫌いじゃないが……水着だぞ」
ぴらりと手渡された資料に馴染みの深い同級生の名前が記されている。糸を引くように同級生の姿が脳裏に浮かぶと、クロードはなんとも言い難い表情を張り付けて、ついでに口元を引きつらせる。
「海水浴中に召喚されたら仕方ないって」
たしかにの言うとおりだ。召喚する側が【いつ】【どこ】【だれ】を指定することはできない。致し方ないというのも分かってはいたが、クロードがローレンツの水着姿を見たいなどと微塵も思わないのも事実だ。
「ま、エクラくんが良いようにするでしょ」
「あんたの悪ノリに乗らないことを祈るばかりさ」
頭を振りながら、召喚師のストレスが変な方向に向けられないことを祈るしかない。クロードはどのみち探りを入れるべきだと、リストの一つに連ねることにする。
それにしても、エクラの身代わりの彼女はもしや今日一日ここにいるのだろうか。ふと疑問がわいた。
「クロード。エクラくんなら南の東屋にいると思う」
「休憩中ならいいんだ。それよりも――」
膝に手をつきながら中途に腰を上げるクロードは、エメラルド色の双眸を一度瞬きして下からの顔を覗きこむ。彼女はエクラのローブを羽織っている。そうでもしなければフードで隠れ気味の顔色をうかがうこともできない。
「わたし?エクラくんの代わりに受け取るものがあって待機中なの」
「じゃあ俺も付き合うかな」
クロードがそう申し出れば、はキョトンとしてみせた。興味が彼女に移ってしまったに過ぎないが、そう驚かれるのもまた心外だ。なにせ彼女とは恋仲で、訪れる人間を選ぶエクラの執務室は都合が良い。彼女にからかわれた時は複雑な気分にもなったが、よくよく考えたなら二人きりだ。
「イタズラは禁止ね」
「おやおや。俺はそんなに信用ならない人間なのかね?」
彼女は正しい。ただこれはイタズラではない。彼女の傍は居心地が良い。なぜ、の問に明確な答えを持っている。言葉にもおそらく出来る。が、伝わってほしい部分がそのまま寸分の狂いなく彼女に伝わるのかといえば判らない。全てが嘘くさく感じてしまうのは自業自得とはいえ、そう伝わってしまっては意味がない。
だから行動に留めるのだ。
が腰掛ける椅子の背もたれに手を置いて、先程よりも更に上体を起こす。すいと顔を近づけるなら、彼女は理解する。逡巡の素振りに実は伴っていたのだろうか。ほんの少し上向いた彼女の動きが答えに思えて、隠れたままの顔に唇を寄せる。
「あーあ。クロード、どうなっても知らないよ」
「恋人にキスをするのに何か覚悟する必要があるのか?」
そんな行動に彼女は釘を刺してくる。嫌がっていなければ、どちらかといえば催促しているかのような眼差しすら向けてくるというのに。嫌なら嫌と言うのがだ。時々流されもするが、自分の中のバランスをよく考えているだろう。察するにしても、自分が知る彼女という存在を思い返せば間違ってはいないはずだ。
「あれ?おわる?」
じ、とをこれでもかと見つめる。彼女の表情も声音も逃せない情報源だ。
「まさか」
そこで終えない答えは正解らしい。唇がゆるい弧を描いた。不敵な笑みの類だったような気もするのだが、目前に良いものをぶら下げられているものを理解している。彼女との仲は良好で、特に我慢を強いられることはない。そういう気持ちを、そういう行為の機会を失うのが惜しいというのが正直なところで、答えの根幹は本能に因っている。
中断していたような素振りでクロードは口付けを再開する。かたくなに彼女がフードを押さえているのが気にはなったが、ときどき彼女はひどく恥ずかしがることがある。情に伴うものなら可愛らしくさえある。これもそうなのだろう、とが倒れてしまわないように支えながら、短い意思の疎通を楽しむ。
鍵のかかっていない部屋で、その夜のことも考えるクロードは廊下に響く足音に気付かない。ノックの後に部屋の主の許可もなくドアが開けられて初めて、気付くのだ。
「あ、お邪魔……って!クロードくん!!?」
ビク、と正気になってクロードは慌てて体を離す。ふり返って視界に入るのはピンクの髪の同級生の姿だ。両手に書類を持つ彼女は、意外にも面倒事を人に押し付けなかった……のか、見つからなかったのか。
「クロードくん……そういうのは……あれ?たしかさんと付き合って……ええ!信じられない!!」
「は?ちょ、ヒルダ。落ち着けって」
「エクラさんに手を出すとか……。先生に報告しないと」
「待て待て待て!!違うっ!誤解だ!ほら!」
事の進むスピードを馬鹿にしてはならない。勢いを助長させる人間であれば尚のことだ。慌てるクロードが「だ」と無実を証明しようとしても、ヒルダからはの顔は見えない。彼女がフードをやはり押さえて顔を見せないからだが。
「!」
「クロードくん!!!」
肩を震わせて、もちろん見えないそこで笑いをこらえている。けれども何も知らないヒルダからしてみれば泣いているように見えるかもしれない。
ヒルダはクロードの耳を引っ張るとツカツカと大きく足音を立てながら部屋を出ていく。彼らは異世界にいたとしても、共に召喚された“先生”が頼れる存在なのに変わりはないらしい。
無情にクロードの嘆きが遮断された部屋で、は一息つく。彼のことは嫌いではないし、体を重ねられるほどには好いている。共にいてほしいと言うなら喜んでそうするし、助けが必要だというなら助ける。
ただ不安は常にある。この世界にはエクラに送還されない限りは、居続けられる。だがここではない世界に行ったあとを考えると、尽きないのだ。
“先生”を伴って身の潔白を証しに来るであろう未来の出迎え方を考えると、まとわり付くそれが一時的であれ薄まるような気がした。